法事阿房列車 ('92.4 平成4年4月作成)
まえがき
突然思い出したように内田百間氏の阿房列車を読み始めてしまった。何故また阿房列車かということになると、はなはだ心もとなく、強いて挙げれば先日のNHKの新橋特集での鉄道唱歌、あるいは親父の十三回忌の帰省を往復とも鉄道としたことにありそうだ。 生れ故郷の佐賀県武雄市へ帰省しなくなって17−8年経っただろうか?「法事、春休み、進学年齢ということ勘案し最後の機会かも知れない家族総出旅行の実現だ。」 というわけで、家族で福岡、佐賀、熊本へと出かけることになった。ともかく、帰省の記録を残さないことにはその年代年代に何をしてきたかが不明になる。現に今までに何十回となく帰省を繰り返しているものの個々の記憶は定かでない。今回は遅ればせ乍ら列車紀行を中心して阿房列車もどきの拙文を書いてみた。
平成4年3月27日 九州へ実父の十三回忌に出発する。目的のある旅行は、阿房列車に非らずと、かの内田翁は、明言されたが、それにもめげず阿房列車とするべく優等列車「みずほ」を選んだ。 会社の用事を早々に切り上げ、まず第一に神田小川町の神田和泉屋へお酒の調達に出かけることとした。 店頭の多数ある酒の中から本日呑む銘柄を決定することは、新入社員採用の面接と似たところがあり一種の緊張感を覚えるものである。もっとも人間では相手も緊張しているはずであるが、お酒の場合はいかがなものであろうか? かくして選んだのは千葉の銘酒「岩の井」と、熊本への土産として持つのは石川は鶴来の「菊姫純米」である。 そう言えば鉄道唱歌の九州道で僕の故郷を歌った「疲れて浴びるは武雄の湯。土産にするは有田焼」という一節を思い出す。 東京駅のホームでカミさんと伜とを待ち合わせて「みずほ」に乗り込み18時定刻発車となる。駅弁を肴に持ち込んだお酒を整理するうちにすっかり出来上がり、何だか分からないままに熟睡とあいなった。まてよ、食堂が営業せず、ただの売店に成り下がってしまったことに不平を漏らしていたような記憶があるぞ。
3月28日 広島停車で目が覚め、うつらうつらして6時30分に洗面所に立つこととした。伜もどうやら目が覚めたようで寝台から顔を覗かせた。 寝台車のトイレに入る度に思い出すことがある。10数年前に九州出張中の寝台車で起きた出来事であるが、札幌で買って使い慣れた万年筆をポロリと寝台列車のトイレに寄付したのである。いい思い出ではないせいか汽車を降りると忘れてしまう、一体どういうことだろう。 見え隠れする瀬戸内海、埋立で海から遠退いた海岸線に沿って我が列車は、ひた走りに走っている。7時30分カミさん起床。売店と化した食堂車で朝食を調達して一服することとした。 いよいよ下関である。そろそろ恒例の立ち会い検査の準備である。JRに頼まれた訳ではないが関門トンネル専用の電気機関車との付替に立ち会わねばならない。東海道・山陽道と、お召し列車を引いてきたEF66ともここでお別れである。先頭車両へとカメラを片手に急いだ。
ところが、私設検査官の到着も待たずに既に連結器は解放されていた。とりあえず証拠写真を一枚撮り、続いて入線のEF81をもう一枚記録した。 定刻、下関駅発車、粛々と走りだした列車は、やがて短声一発、関門トンネルヘ入る。轟音を響かせて海面下の随道を走り抜け九州の地へ一歩踏み込む。 9時28分定刻通り博多到着。食堂車を通り抜けて慌ただしく降車し、ホームで一服する。ホッとするとお腹が空いたので九州の味をうどんに求め立ち食いする。「ああ、美味しい、九州だ!!」 9時52分発各駅停車「瀬高」行乗車。途中新駅"高原"(たかばる)が出来ており九州でも福岡に一極集中かという感じを受けた。10時2分南福岡到着、出迎えの伯父夫妻と挨拶を交わす。やれやれ法事という当初の目的に遅刻せずに参加出来そうである。 下り列車と相前後し上り列車が到着。熊本から駆けつけた娘と義母も無事到着した。改札口から「おーい」と手を振る。これでメンバーが揃った。 十三回忌も大野城市乙金の正栄寺で無事終了し一息ついた。父が昭和55年に鬼籍に入って12年。あっという間である。最も身近だった人が早くも思い出の人物となりつつある。その反面、甥、姪も成長し、町で会っても誰だか分からないようになっており、新しい縁の誕生である。かくして人生は、輪廻を辿るのだろう。 法事の後場所を変えての宴会となり、親戚一同が久しぶりに顔を合わせ話が弾んだ。各自一曲披露の宴である。
注:内田百間氏の間は、正しくは門に月です。 |
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