法事阿房列車

1992年03月29日




3月29日
 実母、義母に末弟の家族と連れ立って総勢11名で明治以来の父祖の地である武雄市朝日町高橋へ墓参に出かけることとした。僕にとっては、17年ぶりの故郷訪問であり、子供達は生まれて初めて見る親父の故郷である。
 春の長雨の中を博多駅11時13分発特急かもめ11号に乗車し途中吉野ケ里の遺跡を右手に見つつ7分遅れで佐賀駅に到着した。佐世保線に向かうためここで普通・肥前山口行に乗車、肥前山口でまたもや佐世保行きに乗り換えであるが、乗り換え時間が1分しかないため接続が不安である。折角の格安ツアーも特急利用となると台無しである。落ち着かない旅行は旅行とは云えないので車掌に延着接続が大丈夫なことを確かめ一安心した。
肥前山口には7分遅れのまま到着し、タウンシャトルなる珍奇な各駅停車に駆け込んだ。
この駅から先は、18歳まで慣れ親しんだ景色であると思ったのが間違いで、殆ど変わってしまっている。
「大町」ここは、かっては日本一の児童数を誇った小学校があった炭坑の町である。次は「北方」ここも炭坑の町であった。国道を横切り佐世保線と平行して石炭を運ぶロープウヱイが貯炭場まで動いており飽かず眺めた記憶がある。次の駅の「高橋」との中間点の久津具(くつく)には岩塊がありここではトパーズが採集できたなと中学時代の鉱石採集を思い出していると、何と高速道路のインターが迫っている。またもや時代の流れを感じさせられる。

 「高橋」ここが僕の生まれ故郷である。鉄道が出来るまでは、「市は、高橋。荷は、牛津」と唄われ、有明海の干満の差を利用し新堀川を港として栄えた佐賀藩西部地区(鍋島本藩)における貨物の一大集積地である。ところが、長崎街道に面したこの町も鉄道開通とともに衰退し、今では当時の面影もなくさびれてしまった商業の町である。昭和30年代前半まで砂を積んだかなり大きな船が新堀港まで上ってきていた記憶がある。

(注:最近佐賀市の高橋が「市は高橋」の街であると書いているHomepageを散見するが、実は見る影もなく寂れたこの通りが「市は高橋」の街である。享保4年(1719)頃雨期になると通行止めが頻発する低地を避けて高橋を通って柄崎(武雄)に向かう街道に改められたようである。文化年代には商業の高橋町として世に知られていた記録がある。昭和初期まではその残映が見られ7月20日の高橋天満宮の恵比須祭には山車飾りを見るために近隣から数多くの見物客が集まっていたものだと明治25年生まれの祖母から聞かされていた。湯治場にすぎなかった武雄温泉の繁栄は帝国海軍佐世保鎮守府の奥座敷として鉄道が通ってからである。
 ”鉄道開通後、物流の主役が船から汽車へ変化したことで、高橋は次第に時代から取り残されることとなった。街の衰亡を防ぐべく地元の商人の出資による共同仕入れの朝日商会という会社を設立したものの時代の流れには蟷螂の斧(とうろうのおの)であった。” と「市は高橋」という佐賀県人会誌・別冊に同じ町会出身の故、古川良一氏が記述しておられた。
私の祖父も朝日商会の創設者の一人であり、生家の経営を傾かせてしまった事の顛末をやはり祖母から聞かされたものである。) (2002.7.6補足)

 17年ぶりの高橋通過が近づいてきた。小学校時代の友人が社長をしている工場が線路近くまで拡張されている。これを右手に見て列車は減速していく。次は、やはり小学校仲間の議員殿の実家だ。夕暮れまで泥まみれで遊んだ新堀川はと見ると何と高速のインターである。更に、感慨にひたる間も無く見慣れない鉄橋が来た。これが話に聞いていた水害対策用のバイパス川だろう。もう昔の故郷の景色では無くなっている。

<見慣れない新しい川である。この辺に歯科医院があったはず。>

 「高橋駅」停車。高橋の衰亡を眺めてきた駅舎もとうに無人の小さな建物になってしまい寂しい限りである。本来ならばここで下車すべきなのだが墓参の足を確保するためには残念ながら次の「武雄温泉」まで乗車しなければならない。

 「武雄温泉」着。駅前の土産屋二階の食堂で不味いと知りながらも昼食とする。案の定の味である。
 雨足が激しくなった中を朝日町の高峰寺までお召し車を進める。見覚えのあるはずの高橋の町並みもさっぱり分からない、20年近くの時間が町とともに我が記憶をも風化させた感がある。小学校の前の"三角(さんかく)屋"の角を曲がり裏道に入ると有ったはずの材木屋も無くなっていた。お寺は以前と変わらないたたずまいでほっとした。山門の両脇には昔馴染みのお地蔵様が並んでいた。

        <墓地から武雄市立朝日小学校の校庭を望む。>
(小学校の前を画面奥の方向武雄へと長崎街道が続く。右手三つの頂を持つ山が武雄の象徴、御船(みふね)山である。そういえばこの小学校も開校して120年位経ったのでは)

 久しぶりの墓参である。祖父と祖母の墓前に初めて子供達を紹介し長年の懸案が無くなった。墓地から見える小学校の眺めも随分変わっている。変わらないのは周辺の山並みぐらいに思えた。烏帽子、柏岳、猪熊山、そして3つの頂の連なる御船山・・・・・・・・
 帰りに高橋の生家を訪問するが余りの痛み様に愕然とする。捨てた家ではあるが悲しいことである。この家は、明治3年の高橋の大火の後建築されたものであり、明治初期の典型的な商家の造りである。愛知県犬山市の明治村にある名古屋の商家と殆ど同じ構造である。板の間の店舗、茶の間、仏間、高い天井を持つ十畳の座敷、中二階、中庭、渡り廊下とそれに続いた便所等々。それに床の間の飾り棚までそっくり同じである。
この家の裏二階で生まれ、小学時代は住まなかったものの中学2年から高校卒業するまで暮らした家である。
  
  <人気(ひとけ)の無い高橋・六番組の町並み・長崎街道である。>(撮影'92.3.29)
 (右側の東から来た街道は、この地点で直角に曲がって北に向かう。700m程進んで朝日小学校前で西折、享保橋を渡って武雄に向かう。写真の左端に部分的に見えるのが既に取り壊された私の生家(2002.6.9補足))
 それにしても、淋しい街になったものである。雨のせいかもしれないが、人っ子一人通らない。かっては、子供達であふれていたのであるが、・・・・・・

  <大正橋と高橋川。右手の道が佐賀から来た長崎街道である。>(撮影'92.3.29)
 (前方の橋は、大正時代に架けられたので大正橋という。下流の石造の榎津橋より撮影した。川幅がいつの間にかぐーっと狭くなっている。この川には螢が出て子供達は泳いでいたのであるが・・・ 大正橋の側の家が塩屋、ここで街道は直角に曲がって北へ向かう。その隣の僅かに見える屋根が生家である。
 実は、この5,6年後には、この2軒と手前角の家が取り壊され空き地となってしまった。そして、この写真を撮った弓なりの石造りの榎津橋も何の感慨も受けぬ貧弱なコンクリート橋に変わってしまい川幅は更に狭くされていた。子供が溢れていた頃には何もなかったガードレールが 無造作に設置され無粋なことはこの上ない状態である。長い歴史を無視する貧困な土木行政の成果であろう。) (2002.6.9補足)

 武雄温泉へ戻り、すっかり変わった温泉通りと変わりない温泉の楼門を見て今夜の宿泊地「湯かり荘」ヘ到着した。ここも初めての地である。一昔前は山の中いや、野孤が出るという山だった場所である、ここが武雄のリゾートの地となっている。
  一風呂浴びているときに突然の呼び出し。「議員」さんが来てますよ!!
入浴は出し掛けの何とかと同じで中断が困難である。悠然と洗って部屋へ戻ると来てる来てる市会議員殿と税務署殿の来訪である。小学校の同級生である。おっつけ社長も駆け付けるとのことである。待つこと1時間若いままの「社長」がやってきた。夕食にちょっと口を付けカミさんも連れ立ち町へ出かけることとした。
 町は日曜日なので開いてない店が多い。で、温泉通りの"末貞"で一席持ってもらうことになった。昔話に花が咲き僕は、ひたすら日頃の無沙汰を詫びるのみである。議員殿は、地元部落の集会の議長を果たすため一時中座となり、改めて午後8時場所を変え小学6年の担任の蟇翁先生のお宅に集合することになった。
 かの先生は、相変わらず元気そうである。思えば20年ぶりの再会ではなかったろうか。毛髪は往時の面影はないものの声は現役時代を髣髴とさせるものがある。しばし、奥様も交えて小学生に戻り歓談である。しかしながら、古い記憶を呼び覚ますのは、錆びた鍵穴にキーを入れドアを開くような感がある。脳髄がギシギシと音を立てるような気がして仕方がない。忘れたい記憶も山ほどあるので余りいい気持ちではない。
 午後10時過ぎ、そろそろ本日の宿の閉門時間が迫ってきたので心を残しながらも辞することとした。友人各位にも感謝しこの日の予定を終わった。





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