法事阿房列車

1992年03月30日




3月30日
 本日は、有田窯元紀行列車とする予定であったが、議員殿の好意でお召し車となった。阿房列車に敬意を表すならば記録に耐えられぬ行動であるが、稀有な機会であるのでここに記録を残す。
 朝、一風呂浴びて朝食という温泉宿のパターンを取り、9時議員殿のお召し車が到着し出発。お召し車には今度小学四年に進級する議員殿の愛娘も同乗し総勢7名である。佐世保線に沿って有田に向い西下する。武雄の町を抜けると蒸気機関車C11の後押しがなければ越えられなかった西谷(にしだん)峠である。父の時代は走って列車に飛び乗ることが出来る程度の速度で峠越えをやっていたようであるが今の時代は、このようなこともなさそうである。
小学六年のみぎり、校庭の砂場の排水を良くする目的で、C11のアッシュを砂場の底に敷き詰める作業を行った。武雄の町まで出かけて石炭殻の積み込みと積み卸しの勤労奉仕させられた記憶がある。戦後14年経っていたとはいえ今の世では児童虐待と言われかねない労働を小学生に課した先生方の英断は、尊敬に値することである。今にして思えば、働く楽しみを覚えたのはこの時ではなかろうか。
 「長崎阿房列車」において、この補機C11の行方に心配をされていた内田翁を思い出す間もなく我がお召し車は、峠越えを終えた。昔の信号場の永尾駅傍を走り抜け佐世保線を跨ぐ陸橋手前から山に入った。先ずは、有田よりも古い歴史を持つ古窯・武雄市武内町の黒牟田焼の丸田窯と金子窯を訪問。丸田窯では菓子皿と変わり徳利を購入した。総計1万9千円也、ぐい呑み2個と梅干し壷のおまけ付きである。
 黒髪山の麓、宮野宿を通り有田へと向かう。宮野の宿は、母方の曾祖母の里である。祖母が健在だったころは良く連れて行ってもらった記憶がある。祖父の生地、多久市と同じく今や全く断絶した故郷である。
 有田では、泉山の採石場を3,40年ぶり?に眺め、有田民俗資料館を見学した。地域以外の人を在郷(じゃーごう)もんと言って排他していた有田も変わったもので、この手の資料館を4か所も持っている。やはり、世界の有田の面目躍如である。武雄はまだ日本の武雄にすら至っていない。故郷のために出来ることは何かをそろそろ考えてみよう。と、爺さん臭い気分になってしまった。

大正4,5年頃の曾祖父一族の写真、有田町上幸平にて。既に全員故人となっていますが、懐かしい祖母が若々しく、伯父達はまだ小さな子供です。実母は未だ生まれていません。海軍少将になった経堂の小父さんの顔も見えます。その曾孫の訪問があったので、この写真をこっそり入れることを思いつきました。武雄も有田も懐かしくてならない土地になってきました。やはり年のせいでしょうか。(汗)(2003.11.30)

 次は買い物を兼ねた見学地・有田卸売り団地、でカミさん一行の買い物を待ち受けた後、柿衛門窯と井上萬二窯を見た。前者は世界の窯、後者は、白磁の窯である。いずれも議員殿の案内に与ることが大である。
 有田バイパスを通り武雄駅までお召し車の足を延ばし好意を謝して議員殿と別れることとした。

 14時45分みどり&ハウステンボスで鳥栖まで向かう。禁煙車両の4席を占領し快適な旅である。久しぶりにみる佐賀平野の地平線である。ところが行きはよいよい帰りは怖いの例え通り鳥栖15時39分発の有明35号は満員でおまけに暑い。義母とカミさんの席を何とか確保したものの僕と子供達は熊本まで立ち通しであった。

 16時37分熊本着。夕食は駅の近くのラーメン屋で熊本庶民の味を堪能した。おでん、ラーメン、ギョウザ、すべてが熊本の味である。





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