ポッポの煙

1995年08月03日

岡山行き各駅停車・高橋駅


 学校の休みの日は、よく佐世保線・高橋駅で遊んでいた。もちろん、近所の悪友らと一緒である。午前9時20分頃に長時間停車している蒸気機関車牽引の列車があり、この汽車の機関士と話をするのが楽しみであった。おおらかな時代だったせいか運転席に乗せてもらい計器やレバーについて説明を受けていた。実物教育のせいで今でも蒸気機関車の運転席の機器配置に違和感がない。このレバーは、加減弁、こっちはブレーキ弁、大きなハンドルは逆転機、上からぶら下がった紐は汽笛弁、ずらりと並んだメータは、ボイラの圧力計やシリンダの圧力計、このレバーを引くとシリンダの下の弁が開きシリンダに溜まった凝結水が勢いよく吹き出すドレイン弁。発電機は蒸気タービンで動かして電池に蓄えている等々、小学生としては、水準以上の科学知識を得ていたのではないだろうか。とは言うものの何のお役に立ったか定かではない。
 この列車は、佐世保発岡山行きの長距離各駅停車であったと思う。単線の佐世保線なので下り列車との交換、そして当時はまだ全盛の貨物列車との交換もあって長い時間止まっていたのだろう。
 そうそう、高橋駅のような小さな駅でも必ず貨物引き込み線があり荷物の積み降ろし、貨物列車との連結切り離しが毎日行われていた。駅前には当然日本通運の事務所が黄色く輝いてそびえていた。みなさんが子供だった頃はいかがだっただろう。
当時の高橋駅の線路構成は、上り下りと貨物用の三本であり、ホームも三本という最も単純な構成であった。しかしながら、あのような小さな駅にも貨物用ホームがあったことは物流の鉄道依存が如何に大きかったかの証であり、現代とは全く違った時代であったと思う。
 その当時は、列車ダイヤ密度が低かったので単線の佐世保線本線を使った貨車の切り離し、連結を行っていたようであるが、東京住まいの現在から思うと奇跡としか思えないである。
 D51牽引の貨物列車が後進し、適度の速度に達した時点で制動かけ、時を同じくして連結器を開放するとその位置以降の貨車がゆっくりと列車から離れ、引き込み線に入って行くのである。無論、その貨車には駅員が取り付いており、ころ合いを見て貨車のブレーキを引くと定位置に停車する訳である。
 これら不思議な光景を見るのが子供達の楽しみであった。神業のような操作もたまには失敗し、線路の途中に貨車が止まってしまうことが起きていた。その場合は先端にブレーキシューみたいなものが付いた物干しざお竿大の棒を車輪と線路の隙間に突っ込み二,三人の職員が掛け声をかけて定位置まで押していた。 「小さな貨車の癖に重いのだなぁ」ということや、重量物は、弾みがついいたら止まらないものなんだと感心していた。自分の模型のの貨車はすぐ止まってしまうのにどうしてなのだろうかと思い悩んだ時期である。慣性の法則なんて知らず、「ちょっと待て、車は急に止まらない」という標語もない良き時代であった。(1995.8.3)







トップへ
戻る
次へ