思い浮かぶことども

2004.11.7 心のゆらゆら


 さて、からくり日記らしきテーマをと思っては見たが、ネタ切れのようである。このようなときは好きなことを考えるに限る。とはいえ生業(なりわい)のコンピュータに関することは考えたくもない。百人近いメンバーの数年間の血と汗の結晶がたった磁気テープ一巻の中に収まってしまうのを見てショックを覚えたのは20年前だったろうか。長年の努力の結果がいつの間にか雲散霧消してしまうコンピュータとは一体何者だろうか。木片に刻んだ仏像が何百年も崇められ、百年以上前のからくりが驚異の念を持って迎えられる。このようなことが正しいことではないかと思う。
 壮年期に家庭を顧みずにやってきた結果は一体何だったのだろうかと空しくなることがある最近である。ソフトウェアで巨万の富を築いている方も多々あると思うのであるが、「私は若い時分にこんなに素晴らしいソフトウェアを作りました。」と自慢するより「火と水で動く蒸気機関車模型を何とか作り上げました。ほれこの通り動くでしょう。」とか、酔考さんのように「木彫に取り組んだけどまだ未熟なので野菜の類しか彫れません。このピーマンなどはいかがでしょうか。目を持つ生き物を彫るには百年早いのです。」といって自分で苦労したものを見せ合う方が満足感に満ち溢れているということに最近気が付いた。どうやら私の場合はソフトウェアのような観念的な産物よりもコツコツ手先で作り上げる姿あるものに満足感を得る下司な性分のようである。(汗)
とはいえ、常々その境地に住まうことは至難の業である。何かと言い訳を見つけその場から逃げ出そうとする別の自分も存在するのである。この二面性の自分に何と我が儘なのだろうと嫌悪感を覚えてきたのも事実である。幸か不幸か齢とともにこの振れは小さくなっているようである。決定(けつじょう)心が出来てきたのであると云えば格好いいのであるが、どうやら爺さん世代に近づいたので面倒くさくなっただけだろうと自己分析している。
これからは益々心の安定を保ちうる手作りの妙を極める生活に辿り着くように日々の精進と反省を続けたい。(汗&(笑))(2004.10.25)





トップへ
戻る
前へ
次へ