法事阿房列車

1992年04月01日




4月1日
 本日はエープリルフールであるとともに19回目の結婚記念日である。
義弟の住む天草の本渡市へ行こうかどうか迷っていたカミさんも豊肥線経由で竹田(たけた)市まで出かけることに同意し、伜と共に出発した。戻りの列車は宮地から蒸気機関車「あそBOY」の予約を取って出かけることとした。
 またもや小雨の中を熊本発8時34分ディーゼル急行火の山1号乗車、阿蘇方面に向かう。南熊本通過、水前寺停車、立田口、武蔵塚、三里木等の懐かしい名前の駅を通過し肥後大津(おおづ)に到着。つつじの名所の肥後大津も全く都会と見まごう様に変貌している。列車はやがて立野に停車した。さあこれからが赤水に向かって大スイッチバックであるが、ディーゼルでは、迫力がない。下り勾配であるが、帰りの蒸気機関車牽引のお召し列車に期待することとした。赤水、宮地、阿蘇停車、これから先は未踏の線路である。熊本の岳父の存命中にも何回か鉄道旅行を試みたが、阿蘇に行きたいのだろうと勘違いした岳父の好意に甘えて車での阿蘇登山になったことが多かった。単に汽車に乗りたいのだというファンの心理はなかなか理解してもらえなっかた。
 阿蘇から波野まではまさに息絶えだえの力行が続く、随道と断崖絶壁の繰り返しである。この様な線路の保守の苦労には並大抵のものがあろう。先年の水害で長期間開通しなかったのを充分理解することが出来た。
 豊後竹田駅到着10時23分定刻である。初めての地に足を踏み入れると一種の戸惑いと未知への期待感があるが、家族を同行しているから弱気は見せられぬ。分かったような顔をして生返事である。タクシーを調達し、先ずは、竹田城跡ヘ。幸い雨も止んだのでゆったりとした気分でお城に登った。ここは城跡としてはまさに天下一品であった。切りたった断崖の上に組まれた石垣は、天然の要害を更に堅固なものとしているようである。桜の咲く竹田城跡は一服の日本画であった。
 お城を中心にした迷路のような町並みは城下町で生活した者にしか分からない一種独特の雰囲気を持っており、地図無しでもある程度動き回れる様な気にしてくれるものだ。お城を下る途中で見つけた竹細工の店で虫篭を見つけた。と思ったらお菓子篭であった。千二百円也。伜もちょっと気に入ったようである。「お姉ちゃんと半分出しでおばあちゃんのお土産にしようよ。」ということで買うととしたようだ。カミさんも別の菓子篭を気に入り購入した。千五百円である。そう言えば大分県は竹細工が名産であり一品一村運動の盛んな土地である。竹細工は、熊本県ではあまり見かけた記憶がない。竹田では結構いい細工物が安く売っている。帰りの荷物が増えそうなのを気にしながらも、もう二・三品追加した。おかげで大きな袋がその後の旅のお供となった。
 小さなお城に似合った武家屋敷通りを歩いて駅へ戻る。途中で竹田市博物館と家臣の持ち物の展示館を見学した。記名は忘れずに行ってきた。

  <竹田の町を歩くカミさんと伜。ちょっと疲れましたかね?>

 どこかで食事をと思いながら町を歩くが食堂が見当たらず、とうとう駅まで来てしまった。14時20分発下り急行火の山まではまだ時間がある。美味しくないだろうなと思いながらも駅前の食堂で昼食をすることとした。もっともここしか食堂がないからしかたがない。大分県にしかないメニューは、"鳥てん定食"だと言うことを思い出し、これを注文する。ついでに地元の酒竹田桜を冷やで呑んだ。定食\600、酒\400也、田舎のくせに安くはないがボリューム満点だ。味もまあまだ。ただし、出てくる器が欠け茶碗揃いでカミさんと顔を見合わせた。
「ちょっと、見て御覧なさい」というカミさん。香物の小皿の裏を見ると何と"大明成化年製"の銘がある。古伊万里だ!!。さすが城下町の駅前食堂である。古いものがそこここに転んでいそうであるがもう時間が無い。そういえば古道具屋も捜していない。

 定刻、荒城の月のメロディに送られて火の山号発車、春休みのせいか混んでいる。まあ、一時間に1本しかない汽車のせいもあろう。あそBOYに乗れることを楽しみに宮地に向かう。15時1分定刻到着、さあ、と思ってホームを見るとDE10に引かれた客車がいる。蒸気機関車8620は?と思い見回すが引き込み線にも見当たらない。駅員に聞くと今日はストで運転要員の手配が付かずディーゼルとのこと当然予約券は払い戻しであるが、何のために宮地で降りたのか分からなくなって興味半減である。しかたなくディーゼルで戻ってきたが、まさに4月馬鹿の日になってしまった。
17時15分熊本着、ご苦労様でした。





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