
思い浮かぶことども
「市は高橋、荷は牛津、産は泰順、詩は安道、碁は但馬、禄は諫早、質は成富、鉢は皿山、句は十方庵」と古くから佐賀で云われていた言葉がある。この高橋と牛津は、佐賀藩の西部地区では一二を争う商業の町であったのであるが、そのことは殆ど忘れ去られ、牛津の旧道に僅かにその残映を見いだせるだけかも知れない。 有明海の干満の差を利用して中世から商業の町として栄えた我が故郷の高橋は牛津以上に衰亡の一途を辿り、今や何の痕跡も残さぬ田舎町に変わり果ててしまっている。18歳になるまで過ごした町であるが、その頃までは往時を偲ぶ古い商家づくりの町並みが残っていた。長崎街道がただの県道になるにつれ我が家を始め旧家が次々と姿を消してしまい、かっての繁栄を偲ぶことすら困難な状態になっている。 高橋という水運で栄えた町があったことすら忘れ去られた最近では、市は高橋といえば、佐賀市外の高橋という橋一帯であると勘違いされ、土木事務所等の公的ホームページに堂々と掲載されている有様である。 これはひとえに高橋に縁を持つものの怠慢であると思い一言まとめておくこととした。 昭和57年に角川書店から出版された角川日本地名大辞典の佐賀県という分厚い本が手元にある。 (角川日本地名辞典 41佐賀県 S.57.3.8発行)
この本で高橋という地名を引くと佐賀市の高橋は痕跡もなく武雄市朝日町高橋が堂々と(笑)記述されているのである。それに、商業の原動力となり私達が産湯を使った高橋川も細かに掲載されている。ここにその一部を索引させていただくことにする。 ------------------------------------------ 高橋 高橋川が六角川支流武雄川に合流する地点の北の平坦地に位置する。地名の由来は有明海の満潮時に海水が逆流し水位が上がり船の運航が行われ、そのための橋桁の高い木橋があったからと伝えられている。
[中世]高橋 鎌倉期から見える地名。杵島郡長嶋荘、後の塚崎荘のうち。古代から中世にかけて杵島郡衞が置かれたと推定される。また水陸交通の要衝であったと考えられている。建治3年12月20日の地頭領家田地屋敷注文案に「たかハしのこそ」と見える。
中略
天正2年頃の竜造寺隆信書状にも「高橋町」と見え、多久長信に対し須古城修築用の材木運搬のための夫丸80人が命じられている。当地が水陸交通の要所として町場化していた様子がうかがえる。
[近世]高橋村 江戸期の村名。杵島郡のうち。佐賀本藩領。武雄郷に属す。 ・・・・「慶長國絵図」では高橋町で見える。「宝暦郷村帳」、「天明郷村帳」ともに高橋宿として見え、小村に横町・茶碗町がある。茂紀年譜には「寛文十二年高橋の市近年始む。当閏六月より警固の足軽を出す。」とあり、「市は高橋、荷は牛津」と佐賀藩内で云われ繁栄した。
中略
この村には上区と下区があり、上区には横町・タンス町・上五日市町・上十五日市町・上廿五日市町・下五日市町・下十五日市町・下廿五日市町があり、下区には中橋・タンス町・万才町・廿日市町・十日市町・船手町・朝日町・夕日町があって、五の付く町が市の当番町であった。 この村は長崎街道と唐津街道の分岐点に位置し、商圏は杵島郡をはじめ小城郡・藤津郡にもまたがり盛況を極めた。高橋代官所が置かれ、運上の取り立て、市の警固・監督を行った。
高橋川 上流部を繁昌川、下流部を新堀江ともいう六角川水系の一支流。
中略
市が立ち、高橋は河港の新堀津を中心にして繁栄した。市は高橋、荷は牛津といわれたほどである。しかし、この河港も明治28年鉄道の開通により、すっかり寂れた。
------------------------------------------ (索引終わり)
この本には生まれ育っていても殆ど知らなかったことどもが満載されており、手放せない本であることを十数年経って気付くというお粗末さである。(汗)
高橋の町も鉄道の開通とともに水運の役割を終えて歴史の彼方に埋没していったのであるが、栄枯盛衰は世の習いその鉄道も自動車のために僅かに命運を保っているに過ぎないようである。かって街道沿いに栄華を極めていた町々は寒村に転落し、通運の主役の高速道路は昔の山中を貫通してしまっている。この様な故郷の変貌をそのまま見過ごしていいものであろうかと素朴な疑問が生じている最近である。
 <新堀津はこんな感じでした。 柳川沖端港(酔考氏撮影)>
古代から住み慣れ親しんだ地域が目に見えない異質の侵略者に犯されこのまま消え去るのは高橋のみならず万葉の時代から知られている杵島の地域にとって大いなる損失である。 町並みや河川という物理的なものだけでなく方言、地名、風習、食べ物など先祖がこれまで数百年積み上げてきたものがこの30年で一気に消え去ろうとしている。アナクロだといわれても構わないのでこの流れの防波堤になりたいと思うこの頃である。
幸いなことに我が故郷でも新な動きが出ている。大阪府高槻市で市長公室長として実績を重ねた故郷の後輩の樋渡啓祐君が合併により4月にスタートする新武雄市の市長に立候補するというのである。 36歳という若さであるが官僚の地位を投げ捨ててNHK朝ドラの風のハルカに自らの姿をあてているという彼が自分のブログで様々な思いを語っている。その中に地名の復活もあって大いに期待している。 地名は先祖が長年にわたって築きあげてきた資産である。地名が残ればその土地土地に残された宝ものが継承できるのではなかろうか。地名だけではなく彼のこれからの様々の提言にも大いに期待している。是非とも武雄市長に当選し新しい地域の立ち上げに邁進していただきたいと望んでいる。
余談であるが、市町村合併が地域に何をもたらすのか。 少なくとも高橋の町は大字甘久19XX番地という具合にその顔を失って更に衰亡の一途を辿ってしまった。 今度の合併ではこのような意味のない管理地名では合併される側に何ももたらさないのではなかろうか。北方町大崎は大崎であり、山内町宮野は宮野であるという歴史的資産を持っていることを忘れて欲しくないのである。合併50年のもたらしたものを改めて噛みしめ、新しい故郷の第一歩を踏み出していただきたいものである。 「市は高橋」から思い浮かぶことを書きなぐってみたが、まあたまにはこんな思いを載せるのもいいだろう。(汗) (2006.1.14) |
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