からくり日記

1996年09月15日

魚捕りあれこれ

 60年代には至る所に小川が流れ、その川には小魚などの水生動物の宝庫であった。もちろん、子供たちはこれらの獲物を採集するのに朝から夕方まで遊び回っていた。
 ところが、あの高度成長時代を境にこれらの小川は、今や暗渠となり下水道代わりに使われているのが大多数と思われる。この現象は東京等の大都会だけでなく私の生まれ育った佐賀県の片田舎にまでも広がってしまっており嘆かわしい次第である。小さな河川。いや、小川の喪失は、子供達と自然の接点を大きく遠ざけてしまい潤いのない人間を増やしてしまった原因ではなかろうか。僅かに残る泥の土手の小川、人工の小川ではあるものの、世田谷区にある次太夫堀公園の小川を見る度に、生態系が昔のままの小川を大切に守る必要に駆られている。
 余談はさておき、その当時のちょっとした小川では、夕餉を飾る量の獲物を手にすることもあった。
 子供の漁師達は、如何にしたら漁獲高を上げうるか真剣に議論し、道具の改良、漁法の改善に励んでいた。子供の腕前で釣りなどやって上げうる漁獲高はたかが知れているのでまずは網、銛を導入し、川の水量が減った際にあちこちポイントを探ることにしていた。運が良ければ、鰻に遭遇するものの、そのぬめりで大抵穴の中に逃走を許してしまっていた。奥の手は、誰かの家にある鰻鋏である。なかなか貸して貰えないので大抵はこっそり持ち出すのであるが、そのような時に限って鰻は現れないのである。

 ここまでは、機械導入の漁法ではなくいわゆる真っ当な魚取りであった。そのうち、小川をせき止めた掻い掘りを始めてみたが、子供の力では、掻き出せる面積に限界があり、時には、せき止めた小さな堤が決壊し涙を呑むこともしばしばのことであった。

 新たに取り組んだ漁法が、自転車の発電器で魚を捕る方法である。年上のグループが取り組んでいるのを見て、何故自転車で魚が捕れるのかを理解するのに随分時間が必要だったような気がするが、解ってしまえばこちらのものである。魚取り用自転車の調達であるが、その当時、一般の家には自動車はおろかオートバイすらなく、自転車が大切な家財であった頃である。その大切な自転車を持ち出すのであるから子供ながらも色々気を使ったと思うが、定かな記憶がない。大抵、親の目を盗んで持ち出したのであろう。
因みに、私が初めて自分の自転車を手にしたのは、中学1年の時であり、そのころ流行していた新聞配達を理由に自転車通学をするためであった。勿論、新車でなく、郵便局の払い下げ自転車を再生したものであった。

 さて、自転車の発電器であるが、内部構造は、タイヤの側面に当てて回転する軸の先に四つ葉のクローバー型をした強力な永久磁石が付いており、この磁力線を取り囲むように発電器ケースの内側にはコイルが巻いてある。すなわち、フレミングの右手の法則の「移動する磁場がコイルに電気を発生させる。」という発電の仕組みそのままの姿である。磁場は一定でなく回転に連れて右へ左へと方向が変化するために当然のことながら交流が発生するのである。磁場の強さ、回転の速度、コイルの巻数で電圧が変化するが、自転車の場合は6V(ボルト)強の電圧だったと思う。自転車の発電器は、普通前輪に付いているのだが、これを後輪に付け替えて停止状態で発電を可能とするのが第一歩である。
 発電器の端子から一本の線、そして自転車本体からもう一本取り出し両者の先端を竹の棒に付けると漁具が完成する。電気の基礎なので今では当たり前のことなのに自転車本体から一本取り出す意味が分かるまでに随分時間がかかってしまったが、賢明な読者には既にご理解いただいていると考える。
 この漁法は、複数の仲間と行うものであり、一人が自転車に乗って懸命にペダルを踏み電力を供給する。もう一人が、ここぞと思うポイントに二本の棒を当てていくのである。
すると、電気に痺れた獲物がふらふらと現れてくる。これを網でさっとすくい上げるのであるが、・・・・・なかなかそのように行かなかったような気もする。捕れたのは捕れたのだが、小物ばかりだったような気がする。今試みれば、獲物を取り逃がすこともないと思えるのだが、小川がない、魚がいない、まったく残念な時代になったものだ。

 電気漁法から更にエスカレートした極めつけが蛆取り薬を使った毒薬漁法である。この方法は、疑う余地のない犯罪行為であるが、もはや時効なので紹介する。
 雨の少ない夏、川の水が減ってくると何故か魚が浮かび上がってくるのである。それを見つけた父は、薬局へ行くことを命じ、「便所の蛆虫を殺すから『ゲラン』を下さいと言うんだぞ、便所の蛆虫と言うのを忘れるなよ。」と言ってお金を握らせて近所の薬局へ走らされるのである。薬局の小父さんは、何故だかにやりとしてこの薬を売ってくれていた。薬の名前は、『ゲラン』という名称であったはずであるが、買い物の成果は、瓶詰め、缶詰めの薬品でなく、ただの乾燥した木の根っ子である。聞けば、南洋の島で産する痺れ薬の木の根ということであった。水を掛けながら石でこつこつ潰していくと白い水溶液が流れ出す。この作業を根気よく続けていくとやがてバケツ一杯ほどの白濁した溶液が溜まってくる。これを当時の汲み取り式便所に撒くと蛆虫が退治できると言うのが正当な使用法である。と言いつつも、これを川に撒くのである。そうです、既にお分かりのように魚が腹を見せ始めたのは上流の誰かが同じことをやったのである。誤解なきように書けば、この薬の効用は、魚が一時しび痺れて動けなくなることにあるようであった。この漁法で捕った魚を綺麗な水にしばらく入れて置くと元のように勢い良く泳ぎ始めるのである。捕った魚は、平気で料理して食べており残留毒素の問題はなかったのではなかろうか。最近、何気なく見たテレビで南洋のどこかで全く同じ漁法を海の魚に使っているシーンを見てしまい、この方法が伝統的漁法であることを知った次第である。南洋が委任統治で日本領だった時代に育った大正前半生まれの父達の世代には良く知られた遊びだったのかも知れない。そういえば、上流の犯人が誰なのか父には解っていたような節があった。

 この薬を撒くと次々に魚が痺れ始め、これを見た近所の子供達は大喜びで川に集まるのである。むろん僕も素知らぬ顔で魚取りに参加した。大物が浮かび始めると子供だけでなく大人の面々も飛び入りとなり、川の中はご近所の集会の呈をなしてしまうのである。
 薬の効き具合は、最初に浮かぶのがメダカのような超小型の魚、その次が鱗を持たない鰻、鯰がフラフラ出てきてしまう。ところが、鰻や鯰の性悪さを知っているものにとっては意外な感を受けてしまう。それから浮かぶのは、ハヤ、鮒、ウグイそして雷魚、なかなか弱ってくれないのが百獣の王ならぬ鯉であり、まさに百魚の王と言えた。流石に動きは緩慢になっており、子供でも捕らえられそうな気になるが、やはり僕達には無理であり、捕まえるのは大抵大人である。この獲物を捕まえた家には子供達が見学に押し掛け、盥(たらい)に張った井戸水の中で鯉は元気を取り戻して悔しそうに泳いでいた。(1996.9.14)







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