ポッポの煙

1996年10月15日

後部補機


 小学校も高学年に近づくと今までは未知だった土地に目が向いてくる。私の場合は、県庁所在地の佐賀よりもむしろ隣の県の佐世保市がそうであった。佐世保市に至るには祖母や、母の出身地である有田があるためなおさらであった。当時、米軍が多数駐留していた佐世保市は、機械マニアを唸らせる面白さに溢れていたが、この話は別に取り上げたい。
 当時住んでいた武雄市から西の方に抜けるには西谷(にしだん)峠 を越えねばならない。この峠が有明海沿いに広がる広大な筑後・佐賀平野の終端部である。
余談であるが、博多から鹿児島本線、長崎本線、佐世保線と列車で旅をすると日本では珍しい地平線の続く一帯がある。車窓からは遥か彼方まで田圃が続き、その果ては有明海の干拓地である。一方、反対側の窓からも田圃が広がり遠景に佐賀県の背骨と言われる背振山、天山の連なりが霞んで見える。この広大な平原を列車が走り抜けるような不思議な感覚を覚えると、それが私の生まれ故郷に近づいた兆しである。そして、その空間の終端部が佐賀県武雄市なのである。
 さて、武雄の駅からの1000分の30という勾配を一台の蒸気機関車で越えるのは困難なために必ず後尾に後押し機関車すなわち後部補機が付くようになっていた。この補機は、私の時代にはタンク機関車の雄C11が使われており、貨物列車のみならず一般の旅客列車にも必ずお供するように定められていたらしい。昭和50年頃に蒸気機関車が廃止されるまで僅かに残った貨物列車のために補機は存在していたようであるが、既に故郷を後にしていた時代なのでその最後の姿についての詳しい話は分からずじまいである。現在、その補機は武雄駅近くの公園に静態保存されているとのことである。

<現在の武雄駅、佐賀(高橋)方面を望む。蒸機が居たとは思えない>

 下り列車が武雄駅(現、武雄温泉駅)に到着するとその列車が通過してきた上り高橋駅方面の補機の駐機場からC11が煙を吐きながら近づいてくる。列車の後部に近づき一旦停車の後、汽笛を短く鳴らして連結。係員が手際良くブレーキ管を接続し発車準備完了である。やがて先頭の機関車が、汽笛一声、これに呼応してC11が汽笛を返す。いよいよ出発である。煙突から嵐のような排気音とともに黒煙が噴き上がる。ホームを離れるとドレイン弁が開かれ、白い蒸気が機関車の足周りを包んでしまう。右下に国道34号線を見て武雄市街を走り抜けるのである。補機は、まだまだ活躍の場でないと見えてブロワー音を出して通り過ぎていく。
武雄市街が途切れると国道は二つに分かれ、元長崎街道の34号線は嬉野、大村を経由して遥か長崎へと続くのである。一方、この分岐点から35号線が始まり、有田、早岐を経て佐世保へと向かっている。我々が乗車する列車は、右、左と併走する35号線に沿って佐世保へと向かうのである。
 田圃に囲まれていた光景が、あっと言う間に山道となるとこれが佐賀平野の終端部であり最初の急坂西谷峠 である。次第に列車の速度が落ち、国道35号線が眼下となると後部補機の排気音が大きく聞こえてくる。間もなく短声一発、トンネルである。先頭の機関車に引き続き、補機も一声、続いてトンネル通過。佐世保線初めてのトンネルである。
生い茂る木々を縫い、前後の機関車が排気音を同期させながら走る様は大変に勇ましい、ある時は、汽車に乗り、ある時は、峠の山中から汽車を眺めたことを昨日のことのように思い出してしまう。中学時代は、岩石採集に夢中になりこの峠に何の変哲もない安山岩を集めに行った。トンネルのすぐ上で友人達と汽車の通過を幾度となく見ていたような気がする。
 峠の二番目のトンネルを過ぎると平坦な路線となり、やがて元信号所の永尾駅である。後部補機は、この駅で切り離され、役目を終えた安堵感からか、軽やかな排気音とクランクの響きをたてて、もと来た道を武雄駅へと戻るのである。
 内田百間翁の阿房列車「第三阿房列車、長崎の鴉」において、この後部補機が佐世保までお供をするように勘違いされていたが、その事実は以上の通りである。
  このまま列車に乗車し、佐世保までの道中を記すのも冗長すぎるので、この列車の運行に当たっての留意点を述べることで道中記に代えたい。有田を過ぎて三河内、早岐で、大村線乗り換えとなるが、佐世保へは早岐より列車が逆向きに走るので注意が必要である。線路は、当初は大村を経由して長崎方向に向かうように敷設されていたのだが、風雲急を告げる明治時代に軍港佐世保に向けての線路が敷設されたので、早岐からはスイッチバックとなって逆走するのである。引っ張ってきた機関車が、一旦列車から離れ、その後ろへと回り連結、逆転運転となる。前進方向のみの速度制御しか出来ない自動車と異なり、弁の位相制御で速度を変えている蒸気機関車の本領発揮である。正常な運転と全く変わらない速度で列車は、佐世保へと向かうのであるが、貯炭漕越しの運転では機関士は大変だったろうと同情する次第である。
 後年、ブルートレインさくらが佐世保まで開通した際、早岐−佐世保間は、C11が逆走して寝台車を牽引しており、全国でも希有なケースとしてマニアに評判になったようである。
そういえば、肝心の蒸気機関車を紹介するのを忘れていたが、この時代旅客列車を引いていたのがC57、貨物列車がD51であった。前者は、山口線で、後者は、高崎でかろうじて生き残っている。私が好きだったのは9600型と8620型であるが、残念ながら9600型は、この世に存在せず、「あそbo」として8620型が熊本で余生を送っている。(1996.10.15)







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