ポッポの煙
日本国有鉄道がJRに変化した頃から鉄道唱歌が何だか気になって仕方のない歌になっていました。この歌を知ったのは、小学校に上がる前に祖母に連れられて行った学芸会の見学の際です。当時の住民の娯楽は学校の行事にあったと見えて運動会、展覧会、学芸会と季節毎の行事の度に学校に出かけていたようです。この中の学芸会の唱歌劇に鉄道唱歌が登場しました。下駄を履いた生徒達が電車ごっこの格好で帯の輪に連なり、テンポのいい歌をうたいながら演壇を走りまわったのです。 歌に合わせて下駄の足並みを揃えるをのですから蒸気機関車と同じ音に聞こえました。「汽笛一斉新橋を」という調子のいい歌とともにザッザッという下駄の音が子供心に心地よく響きます。この立体的な記憶の刷り込み効果は絶大で、今でも昨日のように蘇ります。蛇足ですけど、この唱歌劇で思い出すのは同時に演じられた「水師営の会見」です。何のことかほとんどの方は思い当たらないと思いますが、100年ほど前の日露戦争で乃木将軍がロシアのステッセル少将と降伏会見をした際の情景をうたった唱歌です。「昨日の敵は今日の友」という聞き慣れた言葉は、この歌が原典です。これらの唱歌劇を今でも演じることができるような気がします。ほんの20分程度の芝居であったと思うのですが、不思議な記憶のメカニズムが私にこれらを埋め込んでしまいました。 その後、鉄道唱歌が私の人生に再浮上するのは、昭和50年頃だと思います。鉄道紀行作家の元祖として敬愛する内田百間(ひゃっけん)翁の阿房列車を初めて読んだ時期です。第二阿房列車の巻末の付録に新橋に始まり、神戸経由長崎まで至る鉄道唱歌が付いていたのです。嬉しいことに内田翁が愛蔵していた本そのものの複写です。内田蔵書の篆刻印まで押してありました。(注:百間の間は、正しくは門に月です。) この本で鉄道旅行の楽しみと鉄道唱歌の重みを知りました。「目的があって鉄道に乗るのは邪道である。阿房列車は只乗るだけである。」この意味を理解できてきたのは、ぶらり旅を楽しみ始めた最近のことです。「とは云っても戻らねばならない。戻るためには翌日の列車を待つのである。」という言葉のもとで百間翁が見つけた宿が熊本県八代の松浜軒であります。東海道鉄道唱歌から山陽九州道鉄道唱歌と乗り継いで、その終点の地にお気に入りの宿を見つけるとは、流石に鉄道の達人であります。 折に触れてこの唄の各節を噛みしめると実に様々な想いが湧いてきます。過ぎ去った歴史、かって遊んだ情景、まだ見ぬ場所への憧景を運んでくれるのです。唱歌には故事来歴をさりげなく織り込んでいる箇所や言葉の遊びと思えるところもあり唄の軽快さを更に加速しています。 仕事のストレスは、なかなか発散しきれないのですが、鉄道唱歌をポケットに入れたMP3プレイヤーで聴きながらぶらり旅の列車に乗れば往時の汽車ポッポに乗っているかのような気分になります。人様からどう見られていようとご当人は脳内リゾートに遊んでいるわけであります。ついで恐縮ですが、思いつくままに気になる唱歌のくだりを一部紹介することとします。
3. 窓より近く品川の 台場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か
新橋を出てまもなく品川の駅となります。台場はとうの昔に見えなくなっていましたが、この数年で更に高層ビル群が乱立し汽笛一斉の地、新橋と同様にすっかり変貌してしまいました。この唄が作られた明治33年頃は線路のすぐ側まで海岸だったようで、すぐ近くだった芝浜という落語の光景を思い出してしまいます。百間先生は知人から「海のあなたにうすがすむ」というくだりを品川の海の向こうには猿蟹合戦の臼が住んでいるものだとばかり思っていたと聞かされたと記述していました。これを思い出してニンマリしてしまいます。
7. 八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(おおいちょう) 別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此陰よ
ここは有名な鎌倉八幡宮の階段の左手にある銀杏の木です。この陰に隠れて源実朝の通るのを待ち伏せしているのが彼の従兄弟で僧形の公暁です。後継者はお前だと誰かにそそのかされ実朝を討つ決心をしたのです。 という源氏から北條へ権力が移動せんとする一齣を見ていたのがあの大きな銀杏の木でした。 鎌倉へは、最近流行りの湘南ライナーを利用します。新宿から58分で鎌倉駅頭に立つことができるのは新幹線以上の革命です。おかげで小町通りで長く宝石店を開いている旧友を訪ねる回数がずいぶん増えました。「片瀬腰越江ノ島も ただ半日の道ぞかし」という江ノ島まで炎天下を歩きダウン寸前になったのは昨年の夏休みでした。
11. 支線をあとに立ちかえり わたる相模の馬入川 海水浴に名を得たる 大磯みえて波すずし
海水浴の発祥の地は、ここ大磯であります。明治33年頃の海水浴は現代のレジャーではなくて病弱な人達の療養方法の一つであると考えられていました。大磯、鎌倉などがまさにこのために開発され、明治の著名人はこぞってこの地に別荘を持っていたのです。大磯には湘南発祥の地、海水浴発祥の地の案内があるとともに今なお巨木の松並木が続く東海道沿いには鍋島直大、伊藤博文、大隈重信といった明治の元勲クラスの旧宅跡が並んでいます。そして、その並びを辿っていくと経堂の酔考さんの生家跡もあるのです。すぐ側が吉田茂妾宅であります。残念なことにこれら明治の遺産は次々と宅地造成のため単なる住宅用地に変貌してしまっております。この辺で今のまま保存しておいて欲しいと思います。そうそう、井上蒲鉾店のはんぺんは絶品です。さざれ石というお菓子もあると聞きましたが、まだお目にかかっておりません。
<湘南発祥之地 大磯の碑 側の立て札は西行法師・鴫立つ澤と湘南の解説>
大磯の偉大さは、大船を出ると今をときめく藤沢、平塚、茅ヶ崎等の町を飛ばして唱歌に登場していることです。途中の町は病気療養施設を中心に次第に人口が増やして来たのですが、唱歌が登場した頃は唄いたくても唄えぬ田舎だったのでしょう。
(「さざれ石」についてその考案者のご子孫の方からメールをいただきました。そのお話によると、お茶の家元であったご先祖が茶の席で、大磯の石そっくりのお菓子を考案し、海水浴場の創設者 松本 順が「さざれ石」と名付けたものだそうです。このお菓子は皇室へも献上されるぐらいの大磯名物だったとのことですが、戦後は後継者がいらっしゃらなかったこともありは絶えてしまったそうです。 情報をいただいた Iさんありがとうございました。(2003.10.12))
12. 国府津おるれば馬車ありて 酒匂(さかわ)小田原とおからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
ここから旧東海道線に入ります。現在の御殿場線です。丹那トンネルをあっと云う間に通過する現在の東海道本線も立派ですが、トンネルが開通するまでの旧東海道線は旅情豊かです。そこここに往時の本線施設の痕跡が残る御殿場線には新宿から沼津まで直通特急「あさぎり」が運行されており、副都心から気軽に旧東海道線の旅を楽しむことができます。御殿場線から見る富士山は、どの鉄道路線で見るより大きく迫ってくるという隠れた富士山の鑑賞路線です。小田急線は国府津からではなく松田から御殿場線に入ってしまい一部省略されてしまいますが、そこのところはご勘弁願います。 昭和9年に丹那トンネルが開通した後、新鉄道唱歌(国民歌謡)が作られました。あんまり有名ではありませんが、戦前の鉄道最盛期を唄っているのでちょっとだけ紹介します。鉄道唱歌とはメロディが違っています。悪しからず
1.帝都をあとに颯爽と 東海道は特急の 流線一路富士櫻 つばめの影もうららかに 2.横浜過ぎて野はみどり 松風吹くや鎌倉の 歴史の名残浪遠く 銀幕花のいろ競う
に始まって
3.小田原ゆけば湯の箱根 天下の険もバス電車 越えゆく伊豆の海青く 温泉湧きて渓深し 4.科学の力一念の 大地の闇を貫きて 丹那に入れば今ここに 時代は進むまっしぐら
我々世代は、小学時代に丹那隧道開通までの苦労を紙芝居で何度か見せられました。箱根の山の複雑な地層に因る落盤、熱水の噴出等で犠牲を出しながらの長年にわたる難工事だったようです。丹那トンネルを通過する度に紙芝居のことをぼんやりと思い出してしまいます。 このトンネルの開通を以て御殿場線は東海道本線の座から退いたのです。
18. 鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて 今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の帰り船
沼津を出て海側の車窓に千本松原を眺めながら下っていくと富士川です。沼津からそこに至るまでの街道の雰囲気は若山牧水の「春の二三日」に描かれていますが、昔は松原に沿って桃畑が続いていたようです。現代はどうなのか定かではありません。 この歌は、富士川の河原に潜んでいた平家が飛び立つ水鳥のため発見されて敗北したお話だったと思います。 富士川鉄橋から眺める富士山は東海道線随一の眺望と思います。初夏になると川原に桜海老の絨毯(じゅうたん)が出来るとのことです。是非眺めてみたい風景です。蛇足ながら由比の町は桜海老の町です。駅前の寿司屋の桜海老づくし定食はお薦めです。また、由比から興津に抜ける旧東海道の薩垂峠(さつたとうげ)から見る富士山は絶景です。
<峠に向かう途中からの富士山、峠では雲に隠れてしまいました。>
22. 鞘より抜けておのずから 草薙はらいし御剣(みつるぎ)の 御威(みいつ)は千代に燃ゆる火の 焼津の原はここなれや
現在、草薙(くさなぎ)球場のある辺りかも知れませんが、唱歌では日本武尊(やまとたけるのみこと)が関東征伐の折りに四方から火に囲まれ、持っていた剣で周囲の草を薙払い難を避けたという古事記のお話です。この剣は出雲の国で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八又の大蛇(やまたのおろち)を退治したときに体内から取り出したというものです。日本武尊の逸話から草薙の剣(つるぎ)と呼ばれ、天皇家の後継者が持つ勾玉、鏡とともに三種の神器と云われています。現在は、熱田神宮のご神体になっていると聞いています。
23. 春咲く花の藤枝も すぎて島田の大井川 むかしは人を肩にのせ わたりし話も夢のあと
堅い話が続きました。ちょっとホッとするのがこの一節です。島田を結ったお姉さんが一献どうぞと差し伸ばすお銚子。辺りには甘い藤の花の香りが漂っています。とイメージしてしまうのは不謹慎でしょうか。(汗) 大井川には木製の橋が復活されているとのことですが、まだ行ったことがありません。新幹線で一気に駆け抜ける旅行が増えてしまったのでこのような興味深い町の訪問が果たせなくなっています。ましてや飛行機の旅なんて狭い日本では愚の骨頂と確信しています。
27. 琴ひく風の浜松も 菜種に蝶の舞坂も うしろに走る愉快さを うたうか磯の波のこえ 28. 煙を水に横たえて わたる浜名の橋の上 たもと涼しく吹く風に 夏ものこらずなりにけり 29. 右は入海しずかにて 空には富士の雪しろし 左は遠州灘ちかく 山なす波ぞ砕けちる
琴ひく風と浜松で連想するのは肥後のお菓子、松風です。若干の歌の素養があると琴ひく風に松の緑の歌が浮かぶと思うのですが残念ながら私にはちょっと無理です。また、舞阪に菜種に蝶とは、非凡な歌詞であり、とても私にできる芸当ではありません。弁天島の橋の上を蒸気機関車が走りゆく様は新幹線に乗っていたとしても目を閉じると浮かんできそうな光景です。東海道線でも好きな風景の一つです。
52.神社仏閣山水の 外に京都の物産は 西陣織の綾錦 友禅染の花もみじ 53.扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず 土産を提げていざ立たん あとに名残は残れども
京都のお土産といわれて思いつくのは食べ物ばかりだと気付いて愕然としました。そうです。八つ橋や千枚漬けだけがお土産ではないのです。伝統あるものが沢山あることを忘れてしまっていたようです。そんなことを思い起こさせる一節です。扇は現在も目にしますが、白粉や京都紅というのもまだお土産として利用されているのでしょうか。
60.大阪いでて右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川のながれのみ 浅黄にゆくぞ美しさ
この一節は、色彩の表現が面白くて取り上げました。今やビルの建ち並んだ一帯がどこまでも続く黄色一色の菜の花畑だったとはまったく想像できません。その中に一筋の川の流れがアクセントを付けています。それも現代の薄汚れた神崎川の色ではなく浅黄という日本の色合いであるところを大変嬉しく感じました。
65.おもえば夢か時のまに 五十三次はしりきて 神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩
明治の人々は鉄道をこの様に思っていたのですね。微笑ましくもあり、当時の日本人の何事にも感謝するというという気持ちが伝わってきます。この様な心遣いに小泉八雲は日本に永住することにしたのかなと勝手に想像を広げています。「人に翼の汽車の恩」こんな気持ちを新幹線や飛行機に持てるでしょうか。お金を出せば早いのは当たり前と思う現代人の傲慢さと対極をなすいい表現だと感じています。 好きなことをくどくど云っているうちに神戸まで来てしまいました。この辺りで鉄道唱歌・東海道の話は終点とさせていただきます。(2003.3.8) |
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