列車の旅いろいろ

2002年10月22日

肥後駆け足寝台列車の旅(平成14年10月18-22日)


10月18日旅立ち
18:03東京駅を定刻発車、はやぶさ・さくらの併設寝台特急で熊本での結婚式出席の旅である。それにしても慌ただしい行程となってしまった。

    1. 汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり
     愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として

 寝台特急の行く末が気になるので今回は幾十年ぶりかのA寝台とした。が、何と従来のA寝台ではなくて個室しか連結していないのである。カプセルホテルに毛が生えたような狭い部屋、小さな洗面台が付いているのであるが息苦しい、果たして慣れるのだろうか。セキュリティは電子錠で一応安心であるが、旅としてはB寝台がいいと思った。

席に座ってビールを飲み始めたものの昨晩、久しぶりに倅と飲んだ反動でアルコールが素直に染みわたらない。程々にしていると段々眠くなってきた。
現在20:12富士駅を発車したところである。外の見えぬ暗い窓では文章を綴る元気も出ない。このところの打ち合わせやら資料作成で疲労感がひどいので本日は早めに休むこととする。22:00前にベットを仕立てて就寝する。

後付ではあるが百間翁の故事に習って鉄道唱歌の各地域のくだりを入れてみることにした。翁は鉄道唱歌第一集(東海道・山陽九州)を第二阿房列車の付録にされていたが、小生にそんな芸当が出来るわけがない。通過中目覚めていた地域だけに限って唱歌を並べて鉄道の旅の雰囲気を味わっていただくこととした。土地土地の地歴を簡潔に歌い上げた歌詞に大和田建樹氏の非凡さを今更ながら感嘆した。
「なーに下手な文章のカモフラージュだよ。」とは陰の声である。(汗)

 ※地理教育 鐵道唱歌第一集 明治33年9月3日発行 大和田建樹

    18. 鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて
       今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の帰り船

10月19日山陽道を疾走
 いつもより30分早く6:00に目が覚めた。A寝台の心地よさのせいか大変気持ちよく休むことができた。丁度停まった駅の掲示をみると岩国である。まだ見たことのない錦帯橋を思い浮かべた。東海道の富士から一気に山陽道は岩国へワープしてしまった。

    23. 岩国川の水上に かゝれる橋は算盤の
      玉をならべし如くにて 錦帯橋と名づけたり

30分ほどうつらうつらして、柳井に着いたところで起きることとした。洗面施設が室内にあるので洗面場所の争奪戦は気にしなくても良いが、昔のように混んでいない寝台列車なのでそんなことも起きていないと思われる。

    24. 風に糸よる柳井津の 港にひゞく産物は
       甘露醤油に柳井縞 からき浮世の塩の味

7:00頃隣のロビーカーでぼんやりすることとして移動、流れる風景を眺めているとストレスが流れ去るようであった。丁度そこへ車内販売のおばさんが弁当を売りに来た。徳山あたりで乗車したのであろうか?
穴子弁当と幕の内の2種類であったが、穴子は昨晩深川飯弁当で食したので幕の内を注文し、そのままロビーカーで朝食とした。飛び去る風景がおかずに加わり格別な味となった。気ままな一人旅の良いところで臨機応変の旅行術?である。今は消え去った食堂車での食事を思い出した。

    25. 出船入船たえまなき 商業繁華の三田尻は
       山陽線路のおわりにて 馬関に延ばす汽車のみち
    26. 少しくあとに立ちかえり 徳山港を船出して
       二十里ゆけば豊前なる 門司の港につきにけり

小郡(おごおり)に着くまでの1時間余ゆったりと過ごした。そのうち起き始めたお客が段々ロビーカーに増えて騒がしくなってきたので個室に退散することとした。
で、部屋でこのくだりを書いたところであるが、やがて下関である。デジカメを準備して電気機関車の交換を見ることとしよう。

8:35下関
 先頭の客車で待機し、停車と同時にEF66の交換を見る。客車先頭の2両は貨物車であり、10数年前に8ミリビデオを電気機関車の真後ろで回して関門トンネルを通り抜けるという愚挙を試みたのであるが、現在は貨物車2台の緩衝地帯を設けられて、そのような芸当はできなくなっていた。あの時のビデオは、実に貴重なものではないかと思ってしまったが、何処に行ったのか思い出せぬ、探さなければ。

 東海道から山陽道と駆け抜けてきたEF66の記念写真と、赤いEF81の接近場面をデジカメの動画像で記録したが、この時点でメモり無しとなった。ライブスティームの9600運転風景など動画像を5,6点入れたままだったことに気付き慌てて不要なものを消したが、連結の場面を記録し損ねた。時既に遅しである。

    28. 朝の帆影夕烟 西北さしてゆく船は
       鳥も飛ばぬと音にきく 玄界灘やわたるらん
    29. 満ち引く汐も早鞆の 瀬戸と呼ばるゝ此海は
       源平両氏の古戦場 壇ノ浦とはこれぞかし
    30. 世界にその名いと高き 馬関条約結びたる
       春帆楼の跡とひて 昔しのぶもおもしろや

 関門トンネルを何事もなく通過、何かあったら一大事であるが・・・・・(汗)門司駅に到着した。ホームへ降りて九州の地に第一歩を記す。ついでに深呼吸して九州の空気を吸い込んだ。下関と違い門司のホームは工事中であり売店の影すら見えぬ。うどんを食べようかと思ったが、これは下関駅ホームとの記憶違いであった。
部屋に戻ろうとしたところへ売り子のお姉さんである。先ほど幕の内を食べたばかりであるが、下関の福寿司すなわち河豚寿司である。食い過ぎとは思いつつ、つい買ってしまった。箸を付ける前に記念写真を撮り、口に運んだ。大変美味である。河豚の切り身がいい、皮はちょっとゼラチンが多過ぎの感がした。ご飯の上のネタ中心に味わった。

北九州の町を眺める間もなく小倉に到着。幕末の小倉小笠原藩の不甲斐なさに思いを馳せる間もなく博多に向けて出発した、小一時間で博多である。
丁度今、黒い流れを忘れてしまった遠賀川を渡ったところである。

    31. 門司よりおこる九州の 鉄道線路をはるばると
       ゆけば大里の里すぎて ここぞ小倉と人はよぶ

 部屋でうつらうつらしていたが、窓の外を眺めると見たことのある風景である。実父の墓のある筑前新宮を通過したようである。移りゆく様をゆったり眺めるためにロビーカーへ移動した。丁度志賀島への分岐点、和白(わじろ)である。和白、奈多は、20数年前、航空路管制システムの試験のため幾度と無く訪れたところである。海の中道の中間地点、元雁の巣飛行場の広大な敷地に広がる航空管制部の建物へバス停から2kmという表示板を見て驚愕し、とぼとぼと歩いたことを思い出した。

    37. 走る窓より打ち望む 海の景色のおもしろさの
       磯に貝ほる少女あり 沖に帆かくる小船あり

 やがて香椎駅通過、この先の香椎川鉄橋の連続アーチが4,5歳頃の記憶としてどういう訳か夢のように脳裏に焼き付いている。夢の中のイメージと一致させるために数枚デジカメで撮影してみたが、脳内のイメージは更に広角レンズの光景であった。28mmか21mmのように思われる。


    38. おとにきゝたる箱崎の 松かあらぬか一むらの
       みどり霞みて見えたるは 八幡の神の宮ならん
    39. 天橋立三保の浦 この箱崎を取りそへて
       三松原とよばれたる その名も千代の春のいろ

 箱崎、吉塚と通過する駅をぼんやり眺めていたらやがて博多である。が、ここに降りるのは結婚式の用を終えてからである。ホームのうどんを食べたいなと考えた。餓鬼の世界に陥っている。いかんいかんと首を振って妄想を断ち切った。

    40. 織物産地と知られたる 博多は黒田の城のあと
       川をへだてゝ福岡の 町もまぢかくつゞきたり

 鹿児島本線を西下し、佐賀県をかすめることになる。鳥栖では、長崎行きの「さく」と分かれることになり5分ほど停車した。佐世保行きの「さくら」は3年ほど前に廃止になり、我が故郷、武雄へ寝台特急で向かうすべはなくなってしまった。
今回は彼の地へ行く時間も目的もないのであるが、せめて鉄道唱歌で遠き故郷を偲ぶこととする。順不同になるのであるが、佐賀の地に足を置いているのでご容赦願いたい。

    58.ふたたびかへる鳥栖の駅 線路を西に乗りかへて
      ゆけば間もなく佐賀の町 城にはのこる玉のあと
    59.つかれてあびる武雄の湯 みやげにするは有田焼
      めぐる車輪の早岐より 右にわかるる佐世保道
    60.鎮西一の軍港と その名しられて大村の
      湾をしめたる佐世保には わが鎮守府をおかれたり

鳥栖を出て佐賀・福岡の県境である筑後川を渡るとブリジストン発祥の地久留米である。
その昔は有馬藩の城下町であり、東京の水天宮はこの地が本家なのである。

    49. 宰府わかれて鳥栖の駅 長崎ゆきのわかれ道
      久留米は有馬の旧城下 水天宮もほどちかし

 炭坑の町だった大牟田を過ぎると熊本県である。有明海がちらちらと見え隠れするようになると肥後長洲である。海の向こうには島原半島が霞んで見えており、過年噴火した雲仙の山並は帽子状の雲に隠れていた。
 さて、そろそろ降りる支度をする時間のようである。部屋に戻ると玉名駅通過11:20である。熊本まであと20分、メモを書いていると菊池川鉄橋を通過した。
 トイレに立ってA寝台を見回すと残る乗客は私一人となっていた。昨晩ホームで乗り口を訪ねた小母さんは無事大牟田で降りたようである。列車は、雨上がりの肥後路・田原坂を通過している。

    50. かの西南の戦争に その名ひびきし田原坂
       見にゆく人は木葉より おりて道きけ里人に

 植木、西里と駅を通過し、漱石が降り立った上熊本の駅である。藤崎台球場の大楠群が見えてきた。昨夕以来、延着もせず無事時刻通り熊本へ到着できそうである。さて、本日はどのような行動とするかを思案しながら荷物のまとめにかかった。北岡神社の大楠の下を通過すれば1分で熊本までの旅はお終いである。
鉄道唱歌は、百間翁の愛した八代に敬意を表して終点まで追加することにした。

  <千年以上の歴史を持つ北岡神社(社務所)、鹿児島本線の直上にある。>

  51. 眠る間もなく熊本の 町に着きたり我汽車は
  九州一の大都会 人口五万四千あり
  52. 熊本城は西南の 役に名を得し無類の地
  細川氏のかたみとて 今はおかるゝ六師団
  53. 町の名所は水前寺 公園きよく池ひろし
  宮は紅葉の錦山 寺は法華の本妙寺
  54. ほまれの花もさきにほふ 花岡山の招魂社
  雲か霞か夕ぞらに みゆるは阿蘇の遠煙
  55. わたる白川緑川 川尻ゆけば宇土の里
  国の名に負う不知火の 見ゆるはここの海と聞く
  56. 線路分るる三角港 出で入る船は絶えまなし
  松橋すぎて八代と 聞くも心のたのしさよ
  57. 南は球磨の川の水 矢よりも早くながれたり
  西は天草洋の海 雲かと見ゆる山もなし

11:40定刻熊本到着
 家人と連絡を取ると義母と阿蘇へレンタカーで一泊旅行し、その帰路とのこと。まもなく熊本駅近辺に行くというので様変わりしつつある駅近辺をうろついた。古くさい商店街だったこの界隈はいつの間にか異次元空間に変貌し始めており、これでいいのだろうかと素朴な疑問を抱いた。ニューオータニ前で車に拾い上げてもらい家人の実家へ向かった。
一服した後、一人で町へ出かけた。町はお城祭り前夜で騒然としている。併せて全国技能五輪開催中、更には阿蘇でのカントリージャズ祭り前日で、テンガロンハット姿の集団と欧米人の姿が多かった。

 お昼は十年近く食べた記憶がない現地の熊本ラーメンをと交通センター地下街へ向かう。3店舗ほど並んだ中から横浜ラーメン館の老舗である「こむらさき」を選んだ。30数年前に食べて以来の店である。東京の熊本ラーメンの味に慣れた舌には新鮮な美味しい味であった。東京の味に毒されていたのか、九州の本当の味を忘れてしまっていたようである。
夕食は町で食べようということで交通センターで家人と落ち合い繁華街を歩いてみた。遅れてきたバブルのせいか軒並み店が閉まっている。かってはネオンが輝いていた新市街の一角を通り抜けて郷土料理の店へ入った。馬刺や人文字のぐるぐるなど懐かしい味を堪能した。
家人は学生時代に通っていたお好み焼き店に行きたかったようであった。ゴメン

10月20日結婚式出席
 長い一日となった。義弟の長男の結婚式に出席したのであるが、13:00に郵便貯金会館すなわちメルパルク熊本に集合し、披露宴が終了したのが18:30である。その後、二次会に末弟と出かけたものの、家の鍵を忘れた義母と家人が合流して改めて飲み直しとなってしまった。21:30に帰宅。
 結婚式の記録用にM5+Hexenon60mm/f1.2+コシナ35mm/f1.9を持っていったのが小生らしいことであった。ストロボを忘れたので何故か独逸からの格安品を\3Kで緊急購入。
大正解であった。

10月21日帰京
 翌朝5:30起床。家人は、長女の抜歯手術立ち会いで7:00に家を出発し、9:00発の東京行きに乗るため慌ただしく熊本空港へ向かった。
小生は、長女の件心配なるも福岡の母に会うため一日遅れの行動とした。

9:00つばめ2号乗車
 伝統ある優等列車名を冠する「」ならぬ「つばめ」は、西鹿児島始発である。長距離特急だけあって一本前の熊本始発特急有明4号よりもだいぶ混んでいるが、ぬかりなく座席は確保済みである。悠然と席へ座る。9:00定刻発車。熊本を出て間もなくの坪井川の流れに昔の町並みを思い出す。先年法事から帰京する際に発見したお城の見えるポイントを注意して待つ。一瞬のことであるが、お城を遠望する事ができて一安心である。内田百間翁の愛してやまなかった千丁の柳の思いで車窓を凝視していた。とてもかの写真を撮る技量など無い。ましてやデジカメでは不可能なショットである。
 熊本から乗ったおばさんの一団が近くの席で姦しく騒いでおりなかなか落ち着いた気分になれないまま田原坂を通過し肥後の地とお別れした。

(追記、つばめが九州新幹線の愛称になりました。伝統ある名前が九州の地に残ることになり昔の住民として嬉しく思います東京発鹿児島行き特急つばめの実現、財源はさておき大変楽しみです。飛行機を捨てて列車に乗りましょう。(2003.3.21))

 その昔の佐賀線への乗り継ぎ駅である瀬高近くになると明らかに筑後平野の匂いが強くなる。有明海に続く平野には独特の雰囲気があるのだろう。
 実は、九州に入って唯一気懸かりなことがあった。カチガラスの姿を見ないことである。大抵は鳥栖から大牟田にかけての田圃を眺めていると必ずいるのであるが、はやぶさからは発見できなかった。代わりにカラスの群の多かったこと。
9:55久留米を出て筑後川を渡った肥前旭近くのビニールハウス群の上をカチガラが飛んでいるのを発見した。広げた羽の両端の白が目に入った瞬間は実に嬉しかった。肥前、筑後地域にしか生息していない貴重な鳥である。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に肥前の鍋島直茂がカチカチと鳴く声の縁起良さに連れ帰ったという伝説のある鳥である。不思議に人間と共生し、神社の木や電信柱のように人の目に付きやすい場所に巣を作る習性があり、我々の子供時代にもこの鳥だけは虐めたり捕ったりしたことはなかった。むしろ子供たちの守り神的な雰囲気で庇護されていたのではなかったろうか。別名カササギとも云われるが、カチガラスという言葉が地元の共通語である。カッチュウドリとも呼んでいた記憶がある。
カチガラスのおかげで車内の喧噪を忘れ気分良く博多到着へ備えることができた。
10:07下りはやぶさと二日市通過後をすれ違う。小生と同じようなドラマを抱えている御仁が多々乗っているのであろうとニンマリした。
二日市は、太宰府への乗り継ぎ駅であることを思い出して次の一節を加えることとした。

     41. まだ一日とおもひたる 旅路は早くも二日市
      下りて見てこむ名にききし 宰府の宮の飛梅を
    42. 千年のむかし太宰府を おかれしあとは此処
       宮に祭れる菅公の 事跡かたらむいざ来れ

10:15博多駅定刻到着
駅構内でお土産を選ぶが福岡人への福岡土産は何が良かろうかと思案し、魚を選んだ。
地下鉄西新駅で妹の旦那と待ち合わせた上で車で移動、母と一年ぶりに会った。まあ元気そうでホッとする。その後夕方までゴロゴロし、軽い夕食後、博多駅へ向かう。

22:17あかつき定刻発車
 あかつきという寝台特急に乗ったことがあるのかどうだか記憶が曖昧である。山ほど寝台特急に乗ったので一度ぐらいはあるかも知れないが、初めてということにしておこう。さくらはやぶさみずほのように一桁の列車番号を持つ優等列車を選んでいたのであかつきには乗っていないに違いない。彗星月光というのは仕事で利用していた確かな記憶があるのであるが・・・・
長崎始発のあかつきが博多に到着したのは午後十時を回った時間なので旅をするというよりホテルに寝るという感覚である。そういう意味では同じ個室でも「はやぶさ」のものより機能的であると思った。まず、部屋が広い、隣の部屋とつなぎ合わせる内ドアがある。当然洗面台もあり、なんと、カード式シャワー室があるというのだ。が、面倒で見学するに留めた。しかしながら、部屋の構造から感じるのはバブル時代の遺産の匂いであった。
 門司で長いこと停車している。どうしたことか前後に移動を繰り返しているようである。どうやら後部に別の列車を連結しているようである。が、深夜なのでアナウンスもない。翌日、宮崎からの彗星が連結されていたことを知った。列車は、はやぶよりも平均速度を上げているのか、良く揺れる。あるいは車両が良くないのか定かでない。おかげで眠りが浅く翌日は一日中頭が冴えず紀行文を綴る元気が出ないままとなった。
6:40社内アナウンスが始まった。定刻で走行中やがて三宮とのことである。
7:24新大阪到着。乗り継ぐ「のぞみ」まで若干の余裕があるので朝食用の駅弁を買いに走った。

7:53発のぞみ
乗って朝食を食べると、途端に睡魔が襲ってきた。目が覚めると時刻通りに東京到着も間近であった。残念ながらのぞみの旅は睡眠旅行につき省略とさせていただくこととする。
12:00には自宅へ到着。無事抜歯を終えた娘ともども久しぶりに家族そろっての昼食をとって今回の旅を終わることができた。眠い、疲れた、しばらく休もう。
(2002.10.22)







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