ポッポの煙
地方のJRの駅はなぜかバター臭いデザインに代わってきたようである。一見欧州風、それも安っぽい山小屋風のものが増えてトイレと間違いかねない風格を備えている。(汗) 往時の官製の駅は木造であっても堂々としていたと思う。夢の中に現れる駅はやはり小さいながらも国鉄の匂いを感じさせるあの古い駅舎である。先日のNHKの番組、関口和宏氏による日本一周12,000kmの旅に出てきた肥薩線の嘉レイ川駅?や鹿児島本線・上熊本駅の堂々としているのには感心させられた。古い駅は、時が作り出した建造物といってもいいだろう。 小学校に上がる前から遊び場の一つが佐世保線・高橋駅であった。今では小さな無人の西洋犬小屋であるが、その頃は標準的なローカル線の駅舎であった。上り下りのホームとともに貨物の引き込み線や倉庫もあったと思う。駅前には黄色の日本通運の建物がそびえていた。駅舎と並んだ社宅には、駅長さんが住んでいた。 駅の中は寅さんの映画に出てくるような待合室と赤い信号装置が並ぶ事務室があり、級友の父親が勤務していたこともあって出入りしても我々には寛大であった。 当時の佐世保線は蒸気機関車全盛の単線である。その機関車との交流は以前書いたのであるが、今では珍しい信号機のことを思い出してみた。 この時代(S.30年代初め)の信号機はメカニカルな仕掛けで動作する腕木式であった。根元に車輪が付いたような大きな鉄製のレバーを倒すことでワイヤーを引っ張り、その先端にある信号機の腕木を上下していたのである。長いワイヤーは数百m線路に沿って走り、信号機に情報を伝えていた。駅にある信号レバーは実に重そうであり、駅員が渾身の力を込めて操作していた記憶がある。我々はいつの間にかこの信号のルールを覚えて線路端で遊んでいても汽車の来るこないの予測ができるようになっていた。赤い腕木が下方に垂れると列車が来るのである。黄色の三味線ばち状の腕木の付いた二本腕の信号機では、三味線ばちが下がっていると急行などの通過列車であった。確かめたわけではないのでよく分からないのであるが、もっと他の意味もあったのかもしれない。 線路沿いに延々と続いたワイヤーの潤滑油で服を汚して叱られたこともあったと思う。高橋駅は小さな駅だから信号伝達はワイヤーで足りたのであろうが、ちょっと大きな駅になると腕木式信号機の運用は大ごとだったろう。ワイヤーの代わりに金属パイプのリンクで信号機を制御していたと思う。 というのは佐世保線や長崎本線の大きな駅の外れには焦げ茶色の信号所があり、その足元から数十本のパイプが四方に伸びていた。これで何本もある信号機を動かしているのだろうと子供心なりに想像していた。鉄道システムに興味を抱く前の曖昧な記憶なのであやふやなまま今日に至っている。腕木信号機システムの実際をご存じの方に是非教えていただきたいと思っている。 高橋駅での圧巻は、貨車の入れ替えであった。小さな駅であったが当時の物流は国鉄に頼ることが大であり、各駅ごとに貨車の切り離しや連結が必須の業務であった。そのための要員たるや、恐ろしいものがあったことであろう。国鉄の合理化=要員削減となってしまったのは容易に想像できる。 ここ高橋駅でも一日一回は本線を使って貨車を貨物線に出し入れをしていた。蒸気機関車が何度も行ったり来たりして貨車を操作する様は子供たちにとって紙芝居と同じドラマである。線路沿いにはいつも多数の子供達が群がっていたと思う。このときの機関車が初めて名前を覚えたD51であった。というのは近所の小父さんが現役の機関士で「このD51は、貨物用、2,500馬力あるよ。」などと語ってくれていたのである。 まあ、日常茶飯事に蒸気機関車を見ていると名前などどうでもよく毎日見学していた光景も残念ながらなぜか記憶の中では朧気である。思い出せることは線路に釘をおいて平たくした悪さや貨車の切り離し失敗などのトラブルだけである。人間の記憶とはなんと曖昧なんだろう。平穏無事の人生では回顧することなどないのだろうなとこの年になって気が付いた。 ところで、アメリカでは蒸気機関車で平たく潰した1ペニー硬貨が縁起物だそうで巨大な記念チャレンジャー号が走り去った後に大人も子供もドッと集まって潰した硬貨を回収しているいるビデオを見て微笑んでしまった。どこにも変な鉄ちゃんがいるものである。私も10円硬貨をD51に潰してもらおうと思ったこともあったが、当時の10円の価値たるや。とてもとても使えなかったのである。今にして思い出して残念がっている。(汗)(2005.3.11) |
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