連休阿房旅行
4/30 11:40各駅停車到着。駅の高架工事のために200mほど佐賀寄りに移動している武雄温泉駅を発車する。先輩への辺りの説明に忙しく自分のメモリには情景の記憶が乏しい。
武雄から有田、佐世保の明治33年頃の雰囲気は、鉄道唱歌に次のように歌ってある。
59. つかれてあびる武雄の湯 みやげにするは有田焼 めぐる車輪の早岐(はいき)より 右にわかるる佐世保道 60. 鎮西一の軍港と その名知られて大村の 湾をしめたる佐世保には 我が鎮守府をおかれたり
ポッポの煙・後部補機で書いた西谷(にしだん)峠をまともに見ていなかったような気がする。いつの間にか次の永尾駅到着である。
<佐世保線各駅停車、なかなかスマートで快適な車輌です。>
三間坂、上有田に停車、上有田が実は有田の町の中心部であり大商人、窯元が居住する地域であるが、何故かローカルな駅名に思われる上の文字を冠している。ここが、我が家のルーツの一つであり、母方の曾祖父一族(法事阿房(3))がおそらく江戸の末期から住み着いたらしい。が、曾祖父が総代を務めていた報恩寺が火災で焼け、過去帳が失われたためそれ以前は不明である。何でも牛津藩近辺がルーツと明治25年生まれの祖母に聞いた記憶があるものの定かでない。 余談であるが、手持ちの氏名検索ソフトで曾祖父の桃崎という苗字の全国分布を調べると一番集まっているのが佐賀県多久市であるその周辺にも分布しており、肥前の中央部に多い苗字のようである。ちなみに現在の有田町にはこの姓は0人であった。 正午頃有田駅定刻到着し
「さて気合いを入れて歩きましょうか。でも、お腹が空きましたね。」 「名物は?」 「焼き物です。」 「くえんだろう。」 「すいません、ごどうふです。つまり豆乳を片栗粉で固めたもの、武雄では泡雪ドーフといってたはずですが・・・」 「トーフじゃ腹にたまらん。歩こう。」 という酔考先輩の指揮で強行軍が始まった。 久しぶりの陶器市は連休の中日の平日と云うこともあり比較的歩きやすい。暑くもなく寒くもなく、やはり日頃の行いの良さがこの結果に繋がっているのだと自画自賛する。もちろん酔考さんもである。 お祭り気分の町中を歩くのは大変気分がいい。おそらく買い物客のすべてから発せられる楽しいオーラが我々に降っているのであろうと推測している。我々は、買い物客でなく、見物客であることを地元の皆さんは知らないのが気の毒である。実は貧乏旅行の第一歩が始まっていたのである。 有田駅周辺は、私にとってはなじみが薄くつい足早になり酔考さんより先行してしまう。先輩は、ご新調のニコンD70という最新鋭デジカメでお店の風景をバシバシ撮影中である。 有田町役場をすぎると次第に見慣れた風景になってきた。川を越したら稗古場(ひえこば)である。この地区の報恩寺(ほおんじ)には曾祖父の墓とその一族の墓もある。祖母が元気だった昭和45年頃までは有田に行くたびに連れられていったところである。この季節はお寺の裏の観音山の崖一面に山藤が満開なのでこれを楽しみにしていた。 ところが道を右に行くのか左なのかちょっと迷った。でもその奥に古い山門がある。周囲が駐車場になって開けてしまったのでこんがらがったようである。ここ有田でも古い町屋が壊されて以前の風景が消えかけている。そういえば、お寺の前には古い焼き物工場があり煉瓦製の煙突が立っていたことを後日思い出した。 お寺に入ってすぐ、右奥がお墓である。曾祖父のは墓ではなく記念碑である。ちなみに桃崎龍玉之碑と刻んである。東京に住んでいて最近96歳で亡くなった小母さんと先年91歳で亡くなった曾祖父直系の小父さん二人の戒名が隣の墓銘碑にあるのを見つけた。生前大変お世話になったことを感謝して手を合わせた。 ついでで恐縮であったが、大叔父、大叔母のお墓も見つかったのでお参りしてきた。 楽しみにしていた山藤は、今年は早咲きだったようで既に散りかけていた。
<報恩寺境内の鯨に乗った石碑>
<ご覧の通り髭鯨です>
(注)おんなの有田皿山さんぽ史にこの鯨の石碑のことがありました。 ”19世紀の有田皿山に「久富の有田」とよぶべき時期があったと「肥前陶磁史考」にあります。中ノ原の富商、蔵春亭久富家が2代目与次兵衛昌常のころに家名を上げ、長男与次兵衛昌保、末子で昌保の跡を継いだ与平昌起(字子藻、号西畝)がさらに高めたというのです。中でも昌起は「白眉の傑物」であったとありますが、昌起の顕彰碑が稗古場の曹洞宗*報恩寺の境内に建っています。その碑はクジラの石像の上に乗っています。なぜでしょうか。”
ちなみに、このお寺の裏手に久富家の大きなお墓があります。
<上有田に入りました。酔考さんの後ろ姿>
先輩におつきあいいただいた墓参りであるが、本来の陶器市探訪へ戻ることとした。 まず、今右衛門美術館である。ここは有料であるが、東京佐賀情報センターの所長さんからたまたま招待券をいただいていたので堂々と見学できる。買い物客でごった返す通りと違って館内は大変静かである。やはり買い物客と見物客は別の民族のようである。が、展示品の素晴らしさには驚いた。文化財クラスの色鍋島が無造作?に並んでいる。一つで数千万は下らないだろう。買い物よりもこちらがずーっといいのに眺め入る人は数名である。
「ちょっと、ちょっと、これ汚れているよ。」 「すいません気付きませんでした。でも私らは触れられないのです。」 という会話に振り向けば、陶磁器大家の酔考さんが美術館の小母さんとおねーさんに、いちゃもんを付けているのである。見れば色鍋島が確かに薄汚れている。 「そうそう、折角の品物が勿体ないなぁー、是非綺麗にしてから見せてよ。」 と私までが文句を付けてしまった。 現代の意匠と見まがう江戸中期の色鍋島が素人目にも汚れたまま展示するとは残念と思った。 色々云いつつも大変楽しませてもらい。館を出るときはお世辞をいっぱい並べてしまった。 何と云っても無料である。ただで入って色々文句や提言する客も少ないことであろう。 忘れかけていた空腹が戻ってきたのでここの淑女方に聞くと2軒先の寿司屋がいいとのことで有田ですしを食うことになった。
寿司屋は陶器市モードに切り替わっているようであるが、カウンターはがらんとしている。 「やっているの」 「どうぞ、どうぞ」 「でも、お客がいないね。」 「2階と外で麺類とチラシ寿司をやってますから。」 「普通の寿司を食べる人は陶器市にはこないってわけだ」 ということで我々は普通の陶器市買い物客でないことがまたもや証明されてしまった。
席に腰を下ろすと渇きと空腹がどっと来てしまった。当然飲み物が必要であるが、今晩は宴会が準備されているので控えなければならない。しかしながらこの状態を脱するには、麦の汁が必要だ、それに米の汁も・・・・研ぎ汁ではないのであるけど・・・・・・・ 有田のような山に囲まれたところですしを食べるとは、この地の寿司は、生まれて始めてであるが、意外に美味しい。なるほど今右衛門美術館が教えてくれただけのことはある。 若い店主もなかなかさばけていると思った。 いよいよ、買い物モードに切り替えます。(笑) まず有田で老舗の香蘭社へ入った。この会社は明治の始め日本で初めて碍子を作ったことで知られている。 「あ、ご存じない。実は前の会社に入社したときに電信用碍子は香蘭社が日本初である。と教えられました。」 木造の風格ある建物が本社です。二階に作品展示場があるのでそこを見ようと思ったら、「期間中は閉めてます。」以前は見せてくれたのにと云うと若い社員は怪訝な顔をして「だいぶ前はそうだったらしいのですが、ご覧のように人手不足で」とのことである。 それはそうであろう、第7か8まで売場を出していることがあとで分かった。 デパートではずいぶん高い値付けの品物が「えーっ」と云う価格で並んでいる。ほんのちょっとポチがあるだけでがくんと下がるのがこの世界のようである。 しかしながら、「男は食器類を買わない」という家訓のため手を出さない。(笑)自宅に電話をなさっていた酔考さんも同様のようである。地元へのおみやげに香蘭社のぐいのみ3個購入す、いつもの場所に置くつもりらしい。
<札の辻交差点あたり、信号機向こうが辻精磁社>
先日BS放送の「おーい日本、佐賀県」で話題になった究極のラーメン鉢を「まるぶん」で見つけ一瞬グラッと来たが鉢としては高価すぎるので思いとどまった。旅はこの先長いのである。何が起きるか分からないのである。我々の勘は寝不足で冴えわたっていた。後半を読めばご理解いただけよう。(笑) ラーメン鉢の感触は手にぴったり収まり、なかなか良くできているが、しかしながら世間様がちやほやするものに飛び乗るつもりはない。縁があればまた会おうということでお別れしてきた。
<路地越しの煙突、でも減っていました>
<裏通りも味があります。川の中には焼き物のかけらが一杯です。>
裏通りへ入って友人の実家を探した。禁裏御用の辻精磁社である。表通りの店に90数歳の父上・14代辻常陸さんが在席であればご挨拶するつもりであったが、残念ながら不在であった。 自宅は焼き物の焼き残り?を積んだトンバイ塀に囲まれている古いお宅である。先ほど墓参した曾祖父が明治の御代に遊びに行っていた家はここかと感慨深く思いつつ通り過ぎた。
<禁裏御用・辻精磁社の門>
時間を見ると15時何分かの各駅停車がありそうだ。16時過ぎに駅に着くと議員殿に伝えてあるのでちょうどいい時間である。祖母の実家や大叔母の家のあった懐かしい裏通りを抜けて上有田駅へ向かった。 ホームに入ると珍しい3両編成のディーゼル列車が下り線を入ってきた。昔のオレンジ色の塗装であるが、陶器市の臨時列車らしい。どこ行きかな島原方面だろうと確かめているうちに我々の乗る電車が入ってきた。
さて、武雄温泉に向かおう。 本来は、大川内の鍋島窯まで行きたいところであったが、これは断念した。またの機会に残しておくことも必要である。(2004.4.30) |
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