
連休阿房旅行
5/1 軽く朝湯へ入り洋風の朝食。自家製ジャムがおいしかった。非日常の一日の幕開けである。 目の前の佐賀県宇宙科学館から潅漑湖を散策するが、子供達がルワー釣りをする風景はとても武雄とは思えない。 9:00先生到来する。ペンションの裏手の新しい窯が昨日から気になってならなかったが、先生の知人とのことで早速出かけた。展示室に入って驚いた。実にセンスのいい焼き物が展示されている。それに安い。さすがに先生の推奨する窯だけのことがある。系統は唐津である。唐津も元はと言えば武雄近辺が発祥の地であり同様の焼き物が現代に継承されていて不思議ではない。窯の主は茶道の心得があり、その素養を元に茶器を中心に作陶しているとのことであり、なかなか理にかなっている製品揃いだそうである。(先生談) 茶道の立場から作品を論ずるのは我々には困難であるが、作品のそれぞれに品格を感じたのは私だけだろうか。 「なかなか思い通りの色合いが出ず悩んでいましたが、思い切って釉薬に使っていた藁灰の藁を地域を変えらた考えた色が出ました。前者は、下流の田圃で土地に若干の塩分がある地域、後者は山に近い地域なので塩分はないと推測しています。稲の栽培地域の塩分の差がこれほど釉の色の差に出るとは思いませんでした。」と実に研究熱心なお話を興味深く拝聴した。 焼き物に造詣の深い酔考さんは、この色が出た朝鮮唐津の徳利と水差し、私は地味な一輪挿しを入手した。 という愛すべきなかなかのこの窯を紹介することとする。
茶陶 汲古窯 峰松義人氏 0954−23−7401
敷地には、小振りだが本格的な登り窯がある。周囲の山には数年後を見据えて紅葉を植林しているとのことで近い将来紅葉に囲まれた紅葉谷窯といえるような窯になりそうである。紅葉の時期に訪れてみたいと思う。 武雄の温泉保養村へピクニックに行った際、或いはピクニックに宿泊された方は、数分歩けばこの窯に辿り着くので拝見させてもらうことをお薦めする。 さて、宿に周辺を何時までもうろついていても目的の漫遊旅行にはならないので、先生を急かして若木町川古(かわご)の大楠見学へ出発した。ところが、材木人間の酔考さんが先生の本業は木材関係者ということを知り、急遽彼の会社で銘木を見せてもらうことになった。 あるある、素晴らしい材木のオンパレードである。一度で良いから自分の家にこんな材木を使ってみたいものである。でも無理だな、せめて鉄道模型用の家の新築の際に使うこととしよう。
さて、若木町川古の大楠へは昔と違って広い道に変貌した中野道(なかのみち)を通るとすぐである。となると旧長崎街道の旧宅は通らない、それは帰路のこととして現地へ向かった。 ところが、昭和31年頃に訪れて以来なのでどこがどこやらさっぱり分からない。わずかに若木町の旧街道の町並みのみを知っている気分になった。
大楠公園に着いて驚いた。「巨大」の言葉しかない。酔考さんも黙ったままである。後日、涙が出そうになったと述懐されていた。悠然たる大楠を見て慌てる必要はないのであるが、慌てて写真を撮ろうとしたら巨大な大楠はファインダーに収まらない。この日のためにとせっかく準備してきた15mmレンズを宿に忘れ、ミノルタCLに付いたロッコール40mm/f2.8で撮ろうとしたら田圃のあぜ道の遙か彼方から全景を納めることになった。その取材模様は、からくり探訪旅行・大楠二題に紹介したので参照していただきたい。
 <とりあえずデジカメの画像を入れます>
3000年を生き抜いてきた巨木は絶句するような迫力を持って我々に迫ってきた。人間の威厳は、これらの巨木に比べるとちっぽけなものであることに改めて思い知らされた。 昨日の武雄神社の大楠を含め、武雄は、悠久の昔から素晴らしい財産を育んできたのだと感激した次第である。 見学後、ここから一山越したところにある、唐津焼きのルーツとも云うべき武内町の黒牟田を訪問した。ここは既に著名な窯であり東京でも目にすることも多い。この地で有名な丸田宣政先生とお話をする、身内の話が出て驚いた。 さて、これで午前中の予定は終わった。
私の生まれ故郷、懐かしの高橋の市街を通って武雄温泉へ向かうことにする。朝日小学校が近づくとその左手の山手に先祖の墓があり祖父や祖母が眠っている。今回は車中より頭を下げることで勘弁してもらった。我が母校の朝日小学校からは武雄から来た長崎街道となり問屋街だった高橋の町を辿ることになる。ここから600m程度南下したところにあった100年以上を経過した我が生家は数年前に壊されて、既に空き地となっている。空き地を見ても何も感慨がない。古いものに興味のない従兄弟のなせることではあるが、江戸の街道、古い建物群がもう少し早く見直されていたら、或いはこの町全体が風格ある水運の問屋街で残すことができたのかもしれない。バブル期の各町村一億円のばらまきの一部をこのような歴史保存に使っていたらまた違った国の道を歩んだだろうと確信している。 日本各地で私と同じ思いをしている人は多いのではないかと思った。 先年酔考さんの生地、神奈川県大磯町(ポッポの煙。鉄道唱歌のすすめ)を訪れたのであるが、明治の要人の別荘の建ち並んでいた東海道沿いの生家のあった辺りは空き地ばかりであった。お互い同じ思いを持った次第である。 この文章を書いている際、偶然読んだ「古くて豊かなイギリスの家、便利で貧しい日本の家」、「井形慶子著」(新潮文庫)に日本の古い町並みの崩壊のことが記述してあり、見てきたばかりの我が生家のあった界隈が思い浮かんだ。考えさせられる本であった。(2004.5.1) |
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