連休阿房旅行

2004年05月01日

佐賀県漫遊・吉野ヶ里編


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 さて、午後は先生が外せない用があるので交代の運転手を立てていてくれた。昨晩の麗人むっちゃんである。運転手としてはいささか不安があるが、不慣れな土地の足の便は何とか確保しておきたい。東洋館前で麗人を待つ、待つことしばし、(笑)

 吉野ヶ里遺跡までは高速であっと云うまである。一昔前の感覚では佐賀の彼方、神崎の山裾の遠い土地なのであるが、便利になったものだ。田舎道と思った通りが幹線となり、旧街道筋が田舎道になってしまったが、あと数十年経って以前を知らない人間ばかりになってしまうととこの感慨を持つ者もいなくなるだろう。団塊の世代の我々までが古い貧乏だった日本を知っている最後の世代かも知れない。 千年以上も続いてきた文化が10年も満たないバブル期の狂気で破壊されてしまった気がする。文化大革命の破壊と何も変わらないと思うのであるが、壊し方がスマートで壊している側も何も気が付いていないのが中国のやり方よりもむしろ恐ろしいことと思う。

とはいうものの吉野ヶ里は、佐賀というよりも日本の貴重な遺跡であると感じた。田舎であったが故に残り得た貴重な資産である。何の痕跡も残らない工業団地にならずよかったなぁと心底思う。同様の経緯で県内各所の遺跡が数多く消え去ったことだろう。遺跡の雰囲気は幾枚かの写真で汲み取ってもらうこととして当日は、連休中ということもあり、発掘中の現場を公開していた。甕棺がずらりと並んだ現場にはプロジェクトXに出演の県職員の七田さんもいて我々素人の質問にも気軽に答えてくれた。実は、七田さんに気付いたのは酔考さんである。犬年生まれだけあって嗅ぎつけるのも鋭い。(笑)
この現場は、甕棺の墓域であるが、後年竪穴式住居が造られた重層遺跡とのこと。その間3,4百年の時間が経過しているだろうとのことであった。

   <ずらり並んだ甕棺、丘の向こうまであります。>

「武雄の某所にもこの丘と似ているところがありますが、遺跡があるのでは」と言う質問にも、
「あ、現地に行ったことがありますよ。陶片等も見つけているのできっとあると思います。」
とのことである。ただ、当面はここに重点を注いでいるそうで、ちょっぴり残念であった。

 ちょっと脱線であるが、このように佐賀県自体が古墳時代の遺跡の宝庫なのである。実は私も中一の頃、校庭の隣の神社で崖で水平に埋められた甕棺を見つけ、昼休みに友人と勝手に掘ってしまったことがある。わずかの骨片が残るのみであり、中学に届けたが、その後どうなっただろうか。
それはともかく、吉野が里の発掘現場の隣には神社がありこの地を夏から発掘するとのこと、この日吉神社一帯は円墳のようであり、現在発掘中のこの場所を方墳ではと推測しているとのこと。全体が大きな前方後円墳と見なされる可能性もありそうである。今後の発掘が楽しみである。
七田氏の丁寧な説明にお礼を述べて公園に戻った。

    <公園南部の建物>

公園全体の印象は、建造物の上層物の時代考証は果たしてそうなのか、素人から考えていささか不満でもあり不安である。後々に改めることのないように願いたいものである。時代を考えるとタイムマシンでもない限り納得は困難なので仕方ないかもしれない。
これを除き、この種の公園としては飾り立てもなく極めて良く整った観光地といえる。イベント中心の施設と異なり大人がゆったり回るところだと思った。心の余裕のある世代がゆっくり味合う施設である。 ただし、これからの夏場対策等は工夫が必要かもしれない。

さて、行きは順調であったが、帰りはどうなるだろうかと思ったら案の定ドタバタが起きた。
大和インターから高速に乗ったのであるが、昨晩の飲み疲れからか恐ろしく眠い。私が寝る分はいいのだけどどうやら運転手も同じ状態のようである。
「大丈夫かい」と声をかけると「大丈夫、任せんしゃい」とくる。酔考さんも心配になって思わず肩を揉んでしまった。「あっ、セクハラ、ルール違反」といったものの結果的にはもっと揺すってあげた方が良かったのである。というのは、「パーキングだ、さあ止まろう。」ととんでもないところに停車しようとされる。
「おいおい、其処はバス停だ。見てないのかい」
「気が付かなかった。」で
ある。
と言うことは半分寝ていたのでは・・・・
佐賀県の高速道路で男2名女1名大事故なんて云う記事が出なくて幸いであった。

小城の近くでやっとサービスエリアをやっと見つけて変則停車。(汗) 長めの一服とした。
さて出発になって青ざめた。今度は車のキーの紛失である。幸い売店のレジに届けてあったからよかったのであるが、一時はどうなることやら開いた口が塞がらなかった。(笑)
この一件で運転手はすっかり目が覚めてその後は順調になったのは云うまでもない。

 帰路は武雄市の作った日本一の登り窯、飛龍窯に寄ることにして長崎街道の我が生家跡を通り、昨日の川古の大楠を遠望しつつ現地へ向かった。
成る程、昨日、先生が歯牙にもかけなかった理由がよく分かった。一言で云うと、でかいだけだということである。貧乏な武雄市が鳴り物入りで作るようなものではなかったのではないか思う。市民の方々はいかが思っているのだろうか。
宿へは中学生の頃水晶を採集に通った赤穂山トンネル抜けたものの往時の面影は全くなく、水晶がざくざく採れた崖はなくなってしまっていた。

さて、夕食は改めてまーちゃんとむっちゃんを入れて小宴会を設け、2日間の案内を感謝した。
宿の食事をこの時まともに食べたが、なかなか美味しい。どちらかというと西洋料理であるが、ご飯もうまい。さすが米どころである。パイ壺焼き、若木のハーブ豚、美味であった。
それと同時にお酒も美味しそうなものからどんどん発注し大いに盛り上がった。もっともそれは飲まない二人をさておいて、酔考さんと私のなせることなのである。(汗)
この結果、泊まり賃より酒代が上回ることがどうやら確実になったようである。
阿房な酔っぱらいの旅になってしまった。

 ところで、この日愕然としたことがある。武雄市が市町村合併の結果、湯陶里(ゆとり)市という何ともはや訳の分からぬ名前に変わるのだそうである。地方惚けもここまで来ると馬鹿馬鹿しくて呆れてものが云えない。名は体を表す地名は民度を表す。このいい加減な名前は一体誰が名付けたのか、命名記念に賛同者一覧を永遠に記念碑で顕彰し、市民で尊敬しあうことにすることを推奨する次第である。
この名前で新市名が確定するのであれば恥を天下にさらすことになるであろう。このままだと合併など御免下さいである。
 この名前で久しぶりの帰郷の喜びに水を差されてしまったような気がした。と言うことで明日は、この馬鹿馬鹿しい町からさよならである。市民の再考を祈る次第である。(2004.5.1)







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