連休阿房旅行

2004年05月02日

筑後の旅・柳川に行こう


5/2
一夜が明け、朝食をしながら今日の旅程は、柳川とすることになった。ゆとり市の反動でもないが、本日は武雄や佐賀をパスして白秋の柳川へワープすることとした。
今朝は和食であるが米どころのご飯はさすがに美味しく昨日に引き続き食べ過ぎの感がある。
さて、宿の精算である。都会人の酔考さんはすべてをカードに頼っているのであるが、武雄の山奥でカードが使えるわけがない。(失礼)これが一波乱の幕開け、私が所有する2日分の予算を投入しとりあえず支払いを終えた。まあ、銀行に行けば何とかなるさ。である。
宿の主人に2泊の礼を告げ出発、途中銀行に寄るが閉まっていた、実は全国一斉休業が今日から3日間続くことにまだ気が付いていなかったのである。(苦笑)

8:28武雄温泉駅から各駅停車肥前山口行きに乗り込み、同駅で接続する各駅停車鳥栖行き乗車。この路線を各駅停車で通るのも10数年ぶりである。牛津駅が煉瓦風の建物に変わっており、その昔、鉄道が開通するまでは佐賀県で海運の覇権を争った我が高橋駅との違いを羨ましく思った。町政を今日まで維持してきた成果であろうか。確かに武雄市に巻き込まれ海運の問屋町高橋は一寒村に成り下がった感がする。
次の久保田駅は長崎本線と唐津線の分岐駅である。昭和40年前半までは、ここで9600をたびたび目撃した。が、酔考さんは自分の名前とゆかりの駅名を激写するつもりのご様子であった。ところが、まだ新型デジカメに慣れないのか、タイミングを逸しておられた。やっぱりアナログが似合いそうですけど・・・・。
9:30頃、佐賀駅に着いた。早速銀行を探したが、なかなか見つからない。「いよいよ柳川で探しますか? でも手持ちの金が心細いので何としても探しましょう。」と言うことで見つけたのが郵便局である。 ところが、その窓口を見て驚いた。5/2-4ATMはお休みします。である。
ここに来て疑問は氷解した。連休中の金融機関の休みは今日からだったのである。てっきり明日からと勘違いしていた我々二人がいけなかったのである。
これは大変、手持ちは二人で6千円程度、さてどうする。柳川のウナギや川下りがすーっと遠のいた。
 頼れるのは先輩、持つべきものは友、窮余の一策を考えた酔考さんは、キャッシングマシンへ近づき、14%の利息をものともせず見事に現金をゲットすることに成功された。もちろん私の立て替えた宿代は財布に戻ってきたのである。が、当方の長い行程を考えるとちょっと不安な金額である。
何故、私も同じことをやらないかって。それは私のクレジットカードには究極のセキュリティがかかっているからである。つまり、当の本人が暗証番号を全く記憶していないのである。(汗)
とはいえ、先輩のおかげで鰻が逃げずにすむことになった。

 佐賀から柳川行き10:33西鉄バスに乗車する。一昔前なら0番線発の佐賀線・瀬行きで情緒豊かなローカル線の旅ができたのであるが、残念ながらその佐賀も廃線となってしまい、我が青春のローカル線も消え去ってしまった。
佐賀線は、南佐賀光法(みつのり)、諸富(もろどみ)、筑後若津筑後大川という駅が続き、筑後柳川だったような記憶がある。夏には線路沿いのクリークで子供達が泳いでいるという自然豊かな地域なのである。今の季節は、筑後若津の幻の魚「えつ」であるが、食べてみたかったものの諸般の事情で思い出さなかった。(汗)
がらんとしたバスで佐賀線のルートを辿ったが、廃線の駅と同様の地名が出てくるので大変懐かしく、窓の外をきょろきょろ見回していた。
諸富を過ぎると筑後川を渡る。バスの右手を見ると旧佐賀線の筑後川昇開橋が見えた。これは県か何処かの文化財として保護され一日一回作動しているとのことである。


   <バスの窓から見た筑後川昇開橋>

 家具の町大川を通過する。ここがあの古賀政男氏の生まれ故郷である。
町並みを過ぎ周囲に田圃が拡がる。まだ田植えにはほど遠く、麦の穂がびっしりと並んでいた。麦畑を見るのは久しぶりで、こんなに密生して栽培していたかと酔考さんと顔を見合わせる。
バス通りに沿って至る所にクリークが見える。これが、佐賀、筑後平野の独特の風景である。そうだ、カササギはと急に思いついて目をこらすが、見あたらない。今回の旅では結局カササギを見ることができず残念。先輩に見せられず心残りである。(2004.5.2)







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