連休阿房旅行

2004年05月02日

柳川に遊ぶ・二足の靴編


5/2
11:20西鉄柳川駅に到着。降りる際に運賃のお釣りで色々あったが、お金に敏感になった我々としては仕方がないが、割愛する。(苦笑)
速攻で西鉄観光の川下り船の切符を買って、直ちに乗船、船頭氏は70数歳だとか、柳川の船頭で最高齢は81歳とのこと、定年知らずの職業に酔考さんともども魅力を感じた。さすがに古株の船頭悠然と船を漕ぎマイペースの船旅である。「客が多かろうと少なかろうと賃金は5000円、願うことなら少ない方が軽くて良い」と曰うので船内からどっと笑いが出る。確かに前の船は詰め詰め、我らのはスカスカである。従って船足も速く、とうとう途中で前の船を追い越すという珍事が発生した。

     <こんな処をゆらゆら行くと心がのんびりとなります。>

10数年ぶりの柳川であるが、水路が明るい、気分がいいな、と思って陸を見ると水路を囲む家がなくなって空き地が増えたせいなのである。水路に面した家々のたたずまいが柳川の売りだと思うのであるが、知らず知らずのうちに環境が変わっていた。バブルを挟んだこの平成の御代が日本を壊してきたような気がする。

     <城内に入る水門>

水路に面した植裁は、ツツジは咲き終わっていた。満開時にはさぞ見事だったことであろう。
久しぶりの川下りで随分のんびりすることができた。緩やかに流れ行く川面を見つめていると世の憂さを一瞬であるが忘れ去ることができたような気がする。

     <柳がすっかり伸びもう初夏です。>

船頭の棹さす川面に青葉映ゆ  酔磚(すいせん)

というような、にわか五七五が出る始末である。
終点の沖の端に付く頃、時折雨足が強くなり乗客は備え付けの雨合羽を羽織っていた。このお天気であればこの先、傘が必需品である。船着き場近くの市場に入って安い傘を買い、そのまま魚屋を覗くと、実に、珍しい海産物だらけで、酔考さんには理解しがたいものばかりである。また、大変安い。 生きた海茸めかじゃくつぞこわけのしんのすまてがい赤貝・・・
幾十年ぶりで生きたムツゴロウを発見、有明海の海の幸に感嘆してしまった。


  <色々並んでいます。どれも美味しそうな有明海の恵みです。>


       <ムツゴロウのいけす、美味しそうです。>

しばらくここいら辺に住んでもいいなぁーと思ったくらいである。海茸の干物を10枚購入したが、翌日目撃した3枚1200円の博多駅売店に比べ1000円という安さである。銀行さえ休みでなければ50枚セットを買って帰ったのにと今でも残念である。で、この10枚の海茸の干物は妹宅への土産となった。
海のそばの町は自然とリンクしていてあらゆるエネルギーに満ちているようである。
明日は、水天宮のお祭りとのことでその準備に余念のない小父さん達をちょっと写して白秋生家へ向かった。

          <水天宮のお祭りの船舞台の準備中>

 白秋生家は、その昔訪れたような記憶はあるが定かでない。綺麗になり過ぎたのかもしれない。酔考さんは、母校と社歌が白秋の作詞になると知り変に感激しておられた。


   <白秋の親戚がやっているというお土産店、雛祭りの下げ飾りが綺麗です。>

 「戸島家住宅へ行くぞ。」と聞いたことのない場所を云われる。あまり気が進まないものの先輩の仰せに従って場所を捜索しつつ、この住宅を訪問した。聞けば、今年の4月から公開した柳川藩の武家の家とか。
しかしながら、このような単品保存も大事であるが川下りを取り囲む町並み、それも水路に面した洗い場等々の裏口の面としての保存が更に大切なような気がしてならなかった。
その帰路、沖端漁港を見る。その昔はもっとうらさびしい場所だったと思うのであるが、両岸がコンクリート護岸で固められ、水路は干潟が堆積し盛り上がっている。活発に使っているように思われずちょっと心配に思えた。白秋の六騎(ろっきゅ)の沖端と云われていた雰囲気は既になくなりつつあるのだろうか。
そういえば、白秋の帰去来の詩を思い出す。この歌は、大変心に残るものがあり、その詩を別途、記述し、拙い感想を書いてみることにした。

   <沖端漁港の干潟、武雄市高橋の新堀津とそっくりです。(酔考氏撮影)>

借金してまで待ちに待った昼飯、すなわち鰻である。ところが船着き場界隈のお店は連休と云うこともあって大混雑である。とりあえず時間調整にお花に入る。お花とは柳川藩立花家の屋敷を料亭にしたもので関ヶ原以来の立花家のお宝がこともなげに並べられているのが驚きの世界であった。

          <お花の門と屋敷>

 ところが、この10数年でノブレスの世界は消え去り、今や金金金の渦が音をたてる世界へと大きく変貌していた。酔考さんと憤慨し、早々にお花を後にした。バブルはかように殿様の家までを変えてしまった。泉下の島村長官は何とお思いであろう。
それではと場所を変えて白秋旧宅の更に向こうの鰻屋へ向かった。観光地外れであれば何とかなるだろうと思ったのである。 「ウナギ富貴」、ちょうどお客の交代の時間帯で、待たずに座れた、この地域は鰻蒸籠(せいろ)が主流なので上蒸籠を注文し、あることを期待した。しかしながら期待していた鰻が埋もれたご飯は夢と化し、ちょっと失望した。
その昔、家族で食べた鰻蒸籠とは全く違うのであるが、連休の混雑ではこの鰻で我慢するほかなさそうである。
ところで酔考さんが柳川鍋を注文した、「柳川の柳川鍋は鰻だ。」の持論の確認である。あんまり関係ないのであるが、薩摩芋は、佐賀や長崎ではジューキ(琉球)芋という、熊本や鹿児島ではカラ(唐)芋である。このルールに従うと柳川で柳川鍋はありえないだろうと秘かに思った。
やってきた柳川鍋を見てつぶやいた。「なーんだ、柳川の柳川鍋は泥鰌か。」 この芋のネーミングの原理から考えると、ひょっとしたら柳川には柳川鍋は存在しなかったのではないか。柳川づくし、ご容赦の程を(汗)(2004.5.2)







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