からくり日記

2004年09月05日

初めてラジオと万能ラジオ

 アメリカの映画でラヂオデイズというものがあったのをご存じの方は多いと思う。ラジオを中心に家庭が一つにまとまっていたという古き良き時代を懐かしみ、様々なエピソードを絡み合わせた物語であったと思うが詳しいあらすじは失念してしまった。ただ、あのアメリカにもラジオを中心にしたほのぼのとした時代があったのだと微笑ましく感じた。
ところで、この時代は最近ブームになって昭和レトロともてはやされているが、昭和30年代という極めて短い期間が対象になっている。余談であるが暗黒の戦前と思いこまされたために顧みもされない時代もある。故山本夏彦さんの「戦前という時代」にあるように生き証人がいる間に昭和全体をもう少し見直してもいいと思うのである。戦前の子供の科学という本を読むとそのレベルの高さに驚いてしまう。どうやら今の時代よりもレベルが高かったような気がする。
 それはそれとして、この昭和30年代は、私たち団塊の世代が野に山にと遊び回った時代であり、この頃の回顧が昭和ブームを引き起こしているようである。この時代を語り始めるときりがなく、このHomepageの「からくり日記」もある部分は最近の昭和レトロを対象にしている。というか、自然体で望んだ結果がこれである。
 アメリカもそうであったようにその頃の生活に必ず入り込んでいたものがラヂオであった。大相撲、野球、ドラマ、音楽と大人も子供も夢中だったその時代を目を閉じて思い出してはいかがだろう。ラジオを前にした子供時代の自分が彷彿と浮かんでくるのではないだろうか。 近所のガキ大将の家に集まって大型のラジオを囲み大相撲の取り組みに懸命に耳を傾けていたのをつい昨日のことにように思い出してしまう。僕らの周りには星取り表と今日の取り組みがあった。紙で作ったトントン相撲もあったはずである。
その大型ラジオには緑色に怪しく輝くマジックアイがあったのを覚えていませんか。

 我々の中心だったラジオを自分の手で作ることができたらなというのが小さい頃の私の夢であった。小学校高学年時代には鉱石ラジオが出回っていたがイヤホン専用とあってはラヂオを囲んだ車座ができるわけがない。生まれ故郷の佐賀の武雄市では放送局の到達電波が弱く100Vの電力線からコンデンサ経由で電波を拾うのが一般的であった。これでは携帯ラジオは夢のまた夢である。単純な回路の鉱石ラジオを作ったと思うのであるが、全く記憶になく、私にとっては夢のラジオである。
 中学3年になると技術家庭でラヂオ製作という課程があると聞き驚喜した。それも真空管を使った4球ラジオである。確か、整流、同調検波、増幅というブロックに分けられた3段重ねの金属シャ−シだったと思う。前面の一番上にはスピーカーが付いていたはずである。 現物をまだお持ちの方がひょっとしたらいるかも知れない。真空管はST管だったと思う。昭和37年頃はまだST管も現役だったのだろう。小型のMT管は新型で高価だったので教材にはまだ使われていなかったのかも知れない。古くさいST管が大型なので中学生の我々にはかえって配線が楽だった記憶がある。

そういえば、大学1年の春休みに故郷の電気屋でアルバイトして町の病院にカラーテレビ第一号を取り付けたのが昭和42年だったと思う。そのテレビは未だオール真空管で消費電力は400W弱だったと思う。トランジスターテレビが電化製品に現れるのはこの頃ではなかっただろうか。ちなみに我が家にカラーのトランジスターテレビを入れたのは昭和52年という比較的遅い時期であった。それまでは友人が結婚の際に払い下げていったモノクロの真空管テレビを使っていた。このテレビは札幌へ持っていきアパートを引き払う際に嫌な顔をされたものの古道具屋に他の品物とともに置いてきてしまった。現代だったら宝物扱いであったろう。(笑)

それはともかくとして、中学校のラジオ工作は実体配線図が功を奏して大した苦労もなく完成した。巧くできるのが当たり前と思ったが、他の生徒間では結構トラブルが起きていたようである。 この時理解できたのは整流回路のみでそれ以外はチンプンカンプンである。電波や同調、検波等々物理学や電気の基礎すら分かっていないのだから当然である。テスター、半田ゴテ、ドリルなどの電気工作道具の使い方を学ばせるのがこの教科の目的だったのだろう。ずーっと後年大学時代に通信型受信機を作るまでは結局回路の意味を理解できなかったのである。

 最近電機メーカーOBの方が開設されたラジオ工房という素晴らしいサイトを見つけて楽しませて貰っている。ここに懐かしいラジオや受信機の数々が並んでいる。我が家にあったと思われる国民型ラジオ、学生時代に頑張って購入し作り上げたトリオ9R-59D(ファイブナインデラックス)、今でも現役のナショナル・クーガー2200など興味深く取り上げてある。特に59Dは下宿の部屋の片隅に転がしてあり、これを楽しんだ友人も多いと思う。9球2,3段高周波増幅やSSB受信機能を持っていて遠距離からの電波を楽しんでいた。
この受信機は卒業とともに実家へ持ち帰り、保管しておいたのであるが、自分の生活が忙しくなるにつれて忘却してしまった。このサイトで懐かしいラジオを発見し当時のことを突然思い出してしまった。その後59Dがどうなったのか全く分からない。

 行ったり来たりで恐縮であるが、時代を昭和30年代に戻すと、中学のラジオ作りで味を占め、もっと色々な機能のあるものが欲しくなった。両親にせがんで万能ラジオと云った組立キットを購入して貰った。現在神田にある科学教材社に発注し、機材の届くのを大変待ち遠しく思った記憶がある。
その詳細は既に忘れ去ってしまったが、4,5球式ラジオの機能の他にインターフォン、ワイヤレスマイクの機能があったと思う。ニス塗りの薄茶色の木製ケースは学校で作った剥き出しの教材よりずーっと高級に思えたのである。シャーシ内の配線はかなり混んでおり慣れない半田付けに苦労しながらも完成することができた。京都の町屋のように入り口から裏口までの長かった商家造りの我が家ではインターフォン機能が随分活躍したと思う。最後はロータリースイッチの接点が磨耗し不調になっていたものの、それでも10年あまり使われていたのではないかと思う。
この後、半田ゴテを握ってラジオを組み立てたのは受験も忘れ自分の生活スタイルが固まった大学2年であった。そして社会に出ると仕事中心の生活が始まり、再び真空管やラジオからも遠ざかってしまったのである。若造であったので心に余裕がなかったのであろう。ラジオを忘れてしまったことはちょっぴり残念である。(2004.9.4)







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