からくり日記

2005年08月05日

かいぼり

 子供の頃、私の田舎で何と云っていたか全く思い出せないのでやっぱりかいぼと思うのであるが、川をある区間堰き止めて水をかき出して中の残った魚を一網打尽にする漁法である。以前、魚取りについて書いたことがあるのであるが、何故かこのかいぼりのことが気になりこの項を起こすことにした。
 今にして思えば我が町佐賀県武雄市の高橋は川と水路に囲まれた町であった。江戸時代は水運の町、月に五,六回市の立つ町として栄え、市は高橋、荷は牛津といわれていたようである。ところが、私の子供時代には古い家並みと新堀港には壊れかけた倉庫が散見される寂れた田舎町であった。北原白秋は自署の水郷柳河で自分の生まれた町のことを旧藩時代の廃市という表現で書いていたが、高橋は、城下町ではないのであるが、その印象の町であった。

 長崎街道に沿った古い商家造りの並ぶ高橋の町の周辺は水田地帯でありやがて山裾に至る地域には農家が並んでいた。我が町は農村地帯に浮かぶ商業地帯であって、明治時代までは水運で運ばれた産物を長崎街道を通じて地域への拡散・集積する大ジャンクションであった。もっとも子供時代にそのようなことに気が付くわけがない。地元の大人達も寂れていくことに何の疑問も抱かない時代であった。
 このような地域なので至る所に生活水路、潅漑水路が見受けられ、それぞれが子供の遊び場としても機能していた。この水路のどこに魚がいるか、この水路よりもあちらが珍しいものが掬えるなどと実によく分かっていて、知識の差が大将と兵隊を分ける基準でもあった。私が長じるにつれて次第に河川が汚れ水遊びの機会が激変したので結局将校になることなく子供時代を終わってしまった。

 数年前に日常の魚採りについてここに書いたゲランという木の根での漁について福岡県の方から「自分もやった実に懐かしい。」というメールをいただいたことがある。
かいぼりは、そのような究極の手段ではなく集団の協力によって成し遂げられるムラ的漁法であった。大規模なものは地域の青年団が総出で潅漑用の堀を機械で干すのである。高速道路などが迫り既に消滅したと推測するのであるが、隣町に近い佐世保線沿いに二連の堀があって、誰云うともなく鉄道堀と呼んでいた。この近くに今でもおつきあいいただいている幼馴染みの先生の実家があって先生から地域情報が伝わるのである。「おーい、鉄道堀を干すそうだ。」、「見に行くよ。」という具合に近所の仲間が集まって大人どもの漁法を勉強するのである。背の立たない深い堀なので普段は近寄ることもないのであるが、この日だけは別で水の干されていく過程をつぶさに見るのである。当時のポンプは二,三メートルもある円筒状のもので最上部にプーリーが付いている。ここにベルトをつないで電動機か石油発動機で駆動するのである。子供の目からは、静かな電動機よりも勇ましくけたたましい発動機での作業が好きであった。この時などは堀が広いせいもあって二台のポンプが活躍していたの記憶がある。
次第次第に池の底が見え始めると泥水の中で魚が蠢いているのを確認できる。このタイミングで青年団の諸君の活躍が始まり、一網打尽にするのである。深い泥濘は子供達に危険なので参加させてくれず、周囲の土手で指をくわえて見ているのである。
一抱えもあるような鯉や卓球のラケットのような鮒が捕らえられる度に歓声を上げていた。
これらの獲物を頂戴できればいいのであるが、残念ながらこの地域は我々の地区から離れたところなので知り合いの大人もいず見物を楽しんで帰るのみである。
商業地域に住んでいて、このような漁業権?を持つはずもない我々は近くの小川で時折かいぼりを楽しんだ。単独でやるのは無理で仲間が集まらなければ出来ない遊びである。人数が多ければ大きな川で少なければ小さな流れでと漁場を変えていたが、やっぱり小川では獲物も少なかった。
 我が家の裏には幅2m深さ20-30cmの水路があった。800m程度上流の小学校で本流から分岐した水を湧き水系の小川に加え、水量を増した生活のための川である。私が小学3年頃(昭和32,3年)まではきれいな水が流れ、家によってはざるや金網製の特殊な籠に入れた米をその水で研いでいたほどである。改めて井戸水で炊きあげるのは勿論である。
話が逸れたが、この川は本流の支流のせいか見かけによらず獲物が多いのである。普段は網、或いは以前紹介した電気仕掛け、モリで魚取りをしていたが、かいぼりを見ると一網打尽をやりたくなる。川底の石を集めて流れをせき止めるのである。水量が多いので手際よくやらなければ水はすぐ堰を越してくる普段魚が潜んでいる場所に上流、下流と手分けして堰をこしらえてバケツで懸命に水をかき出すのである次第に底が見えザリガニやフナ、ナマズが登場してくる。たまにウナギがいるのであるが、石垣の中にいるので滅多にとらえることが出来ない。石垣と言えばドンポであるいわゆるドンコというハゼのような魚も沢山いた。それにヨシノボリもである。
これら魚が見え始めるとせき止めた席の補修との戦いが始まる。上流の堰はあちこちがほころび始め水が漏れてくる。それにその上を越し始めるのである。懸命に魚を捕りながら補修をするのは子供達には大変な労働で、やがてそれが限界を超すと、堤防が一気に崩壊してその遊びもお仕舞いである。
こんな遊びの出来た川も次第に農薬や洗剤に汚染され、汚いどぶ川になってしまった。そのうち道路を広げるために上に蓋をされてただの暗渠になったようである。これがこれまでの日本の地方の姿である。このころを思うと懐かしくもあり腹立たしくもなるのは私だけなんだろうか。(2005.7.20)







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