応援阿房旅行

2006年02月12日
有田も懐かしい


2.12 ちょっと寂しい有田
 今日は、東洋館の1階元湯の朝風呂から始まった。
昨晩は残念ながら入ることができなかったのであるが、目が覚めると同時に温泉へ向かった。 予想通りのズシリとくる素晴らしい湯であり、匂いは殆ど感じないもののぬるりとした武雄温泉独特の湯触りである。子供の頃を思い出す感触である。祖母によく連れていってもらった元湯の感覚が蘇った。毎日温泉三昧は温泉地ならではの特権である。地元の人には当たり前すぎて感じていないと思うのであるが、この上のない贅沢である。 貧乏旅行であっても何十年ぶりかの贅沢三昧に思えるから不思議なものである。(汗)
 ここ東洋館は、初めての宿泊であるが、温泉、料理、対応と大変バランスがとれた宿であり、この先大蔵大臣を伴って再訪したい宿である。さて、次回に泊まる機会はいつになるのであろうか。こんなことを思いつつ今日の予定に取りかかった。

 今日は有田への墓参りである。汽車に乗る前に事務所へ寄っておくことにした。
するとまーちゃんから昨日お会いできなかった恩師宅へ再度行ってくれと云う依頼、お会いしたいので是非もなくお伺いする。
 玄関を開くと満面の笑みで出迎えていただいた。「ようきたね。どがんしよった。」と言う言葉に嬉しくなった。 聞けば左手が不自由となる大病をされたとのことであるが、文字も書けるまでに回復され一安心。「年賀状きたない文字ですまんだった。」と云っていただきすっかり恐縮してしまった。奥様も玄関へおいでになってご挨拶。実母と同じ時期に教員をしていた方で生まれ故郷の高橋のご出身である。母の近況を報告すると喜んでいただいた。 「樋渡さんを応援しとっよ。」と先生のありがたい言葉もいただき、帰り際には先生と何度も握手をし健康を祈った。玄関を出るまで「がんばれよ」と云う激励の言葉と改めての握手に涙がこぼれそうになった。
先生のご健康と再会を祈念してお別れした。
樋渡氏の応援に来ていてよかったと思う瞬間であった。

武雄温泉駅9:55発普通電車で上有田へ向かう。列車に乗ると浮かぶのはやっぱり道唱歌である。等々行き着くところまで行ってしまったようで我ながら嬉しい。(笑)

     59. つかれあびる武雄の湯  みやげにするは有田焼
        めぐる車輪の早岐より  右にわかるる佐世保道

 武雄市街を抜けて急坂の西谷峠を越えると武雄市と合併する山内町・永尾駅である。三間坂駅を過ぎてトンネルを抜けると上有田である。
上有田駅は、既に無人駅になっている。ここで下車する人は僅かに5,6名。やっぱりこれでは無人駅になっても仕方ないかも知れないな。(汗)  昔の情緒を残す駅であるが、往事を思わせる賑わいがない、有田生まれの亡くなった祖母がこの光景を眺めたら何というのであろう。

   <無人駅になった上有田駅>

 その祖母は、日露戦争の日本海海戦に勝利し凱旋する東郷大将をこのホームで迎えたことをよく話してくれたものである。明治は遠くなりにけりどころではなく昭和は遠くなりにけりである。

  <上有田駅から市街に抜けるトンネルより>

曾祖父の家のあった路地を通ったが以前は古い床のタイルにその痕跡を見ることができたのであるが、周囲の家が建て変わってしまい全くその後も見あたらなくなっていた。たぶんこの辺であろうと思い写真を撮るが。井戸や煉瓦塀がその名残かも知れない。祖母が逝って既に35年、過去が消え去るのももっともなことである。

   <その昔は曾祖父宅の塀だったかも???>

 有田雛やきもの祭りをやっている中樽の古い町並みを通るが、休日にもかかわらず人出が少ない。雛祭りにはまだ早すぎる季節のせいなのかも知れない。「あれ、寒いな。」と思ったらマフラーを巻いていない、宿を出るときには確かに巻いていたのに・・・・。 記憶を辿るとどうやら武雄駅前で落としたようである。汽車の時間を気にして慌てて行動したのがいけなかった。落ち着いて行動せよとのご先祖様の啓示であろう。(汗)
稗古場の報恩寺に着き2年ぶりの曾祖父の墓参を終え、お寺の裏山・観音山へ登り有田を一望した。有田では山登りと云えば宴会を指すようであるが、この山上で故郷を忍び宴席を設けたかっての朝鮮陶工達の習慣が転じたことらしい。山頂にある観音像石碑に報恩寺の総代をやったことのある曾祖父の名を探すが風化が激しくて見いだせなかった。40年ほど前に祖母と母と一緒に探したときには確かに確認したのであるがこの石碑も歴史の彼方に消え去っていくようである。

     <観音山山頂の石碑>

 観音山から稗古場の窯跡へ降りて咲き残った水仙を数カット撮影していると足下に古い陶片を見つけ誘惑に駆られたが、そのまま元の場所に戻した。ちょっと残念であるが、ご先祖様がそばで見ている、天網恢々疎にして漏らさずである。(笑)
古い町並みに戻ると腹が空いて仕方がない、休んでいる店も多い中で古くからのモナミというレストランを見つけて入ってみる。お店のお母さんとお話しすると大正六年?生まれという大先輩である。古い有田のことを色々お聞きできた。いつまでもお元気で。

 陶山神社に数十年ぶりに行ってみることにした。お腹が満ちて心の余裕が出来たからであろう。 境内では近所の皆さんがゲートボールに乗じている和やかな光景があった。

     <陶山神社の磁器製の鳥居>

 境内に建てられていた古賀連合艦隊司令長官の石碑に気づいた。古賀元帥はここ有田の出身である。同郷の後輩で経堂在の親類のおじさん宛の手紙を娘さんから見せていただいたのは一昨年であった。 「重巡洋艦の6m測距儀の精度を上げてくれ。」という長官からの依頼は当時の海軍の悲痛な叫びだったと考える。 米軍のレーダー照準射撃をまだ海軍首脳が認識していなかったことを示す歴史的価値ある手紙を読み複雑な思いにかられた。

 札の辻に戻り、辻精磁社の直売店の隅に置いてあった規格外品を買ってしまった。(汗) いつもは買えないものが有田で手に入ったから嬉しい。これが東京土産である。 その足で同社の工場のトンバイ塀を見て駅へ向かう。東京にいる同級生の実家である。工房の窓越しにさりげなく置かれた銘品が輝いていた。

  <窓ガラス越しに銘品発見!!>


   <友人の実家、辻精磁社のトンバイ塀>

 上有田駅から再び乗車して武雄温泉駅に到着したが、宿に行くにはちょっと早い時間である。今日の宿は一昨日までのピクニックである。 またとない機会なので町を歩き抜けて宿に向かうことにした。いつもならタクシーなのであるが、新しい武雄市をこの足と目で味わってみたいのである。(汗)
 市街地を抜けて巨大なショッピングセンターを見つける。大変な賑わいであるが、これでは市民の購買力が吸い取られて既存の町並みに向かわないはずである。 しかしながら出来てしまったものは仕方がない。この店を活用しつつ新しい考え方で町を活性化していく必要があろう。 テナントは地元のものが殆ど無いように思ったが地産地消に変えていく試みが必要である。 このあと武雄文化会館、塚崎の大楠に立ち寄り正直驚いた。(このことはブログに記述した。)

     <塚崎の大楠>

 やっと宿のある永島地区が近づく、永島の古い堤(溜池のこと)を歩く頃はヘトヘトである。鉄道の旅で足が鈍ってしまったせいかも知れない、それとも飲み過ぎのせいだろうか? 定宿ピクニックに入る前にカミさんへの土産を思い出して宿の裏手にある汲古窯へ向かってせん茶碗を求めた。(帰京後この茶碗の評判が良くホッとした。)

今日は5km程度?歩いて宿に向かうという暴挙をやったせいかさすがに疲が出てきたが、温泉に浸るとそれもどこかへ消え失せた思いである。
夕刻まーちゃんご夫妻と会食し将来の武雄のことを語り合った。樋渡氏に是非とも首長になってもらいたいものである。
23時、挨拶周りを終えた樋渡ご夫妻が突然訪ねてきてくれた。頑張って欲しい。





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