ポッポの煙

2009年02月10日

百關謳カは生きている 


 汽車ぽっぽの愛好家として学生時代から親しみを覚えていた内田百翁である。此の氏を始めとする汽車文士の阿川弘之氏や宮脇俊三氏らの随筆は見落とさずに読むよう努力しているのであるが、一般の方が親しむ随筆の類にはとんと縁がない。

 そんな中私が何気なく手にしたのが百濶・の「深夜の初会」(ちくま文庫)という座談集である。半年ほど前に引き込まれてしまい一気に読んでしまった。この本は昭和20年後半から30年にかけて明治22年生まれの先生が徳川夢声や古今亭志ん生といった当世一の偏屈親父らと一杯やりながら語り合うというものである。座談中はゲストとともに脱線し放題であるが巨大な対談者のユニークさも手伝ってその光景が蘇るような文章である。そうそう、今話題の方の祖父である吉田茂もゲストに含まれていたようである。(苦笑)

 もちろん私には面識もないのは当然として当時幼児であった私にはマスコミ経由ですら接したことはない怪人揃いである。ところが、こんな洒脱な読み物も珍しいと読み進んでいるうちに時空を越えて文字通りの「深夜の初会」になってしまった。 山本夏彦氏がよく書いておられた「書物を通じて過去・現在の誰とでも会ったことがある。」という気持ちになる対談集に目を白黒した次第である。 百關謳カの文学は、阿房列車だけでないところが大作家たる所以であろう。今更ながら感服した。

 それはともかく、一連の阿房列車は私の携帯愛読書であるので、「さて、百關謳カは何歳の頃この随筆に取りかかられたのだろうか?」と年譜でみると最初の「特別阿房列車」は昭和26年、先生61歳の作品である。 ということであるならば同世代に辿り着いた私も鐵道の旅を更に極めるよう精進しなければならない。と勢いづいているところである。ヒマラヤ山系なるお供のいない小兵の私であるが、身軽な旅を楽しむことに専念したいものである。

一人、汽車旅に出るにつけ百關謳カの偉大さが身に染むジジイの旅になりそうではあるが・・・・。
(2009.2.10) 







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